来迎寺。藤原秀衡の守護仏・車返しの弥陀
来迎寺の概要
曹洞宗系単立寺院の来迎寺は、大光山無量寿院と号します。来迎寺は、藤原秀衡の守護仏だった阿弥陀三尊を源頼朝の命で鎌倉に搬送中、東京都府中市車返で動かなくなってしまい、引き返しても当地で動かなくなってしまったことから草堂を建立したといいます。榮芝願富(天正10年1582年寂)が開山、慶安年間(1648-1651)には寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 大光山 |
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院号 | 無量寿院 |
寺号 | 来迎寺 |
本尊 | 阿弥陀三尊 |
住所 | 所沢市山口1392 |
宗派 | 曹洞宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
来迎寺の縁起
来迎寺は、藤原秀衡の守護仏だった阿弥陀三尊を源頼朝の命で鎌倉に搬送中、東京都府中市車返で動かなくなってしまい、引き返しても当地で動かなくなってしまったことから草堂を建立したといいます。榮芝願富(天正10年1582年寂)が開山、慶安年間(1648-1651)には寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による来迎寺の縁起
(堀之内村)来迎寺
天光山無量壽院と號す、曹洞宗、多磨郡二又尾村海禅寺末、開山榮芝願富天正十年六月十七日寂す、今寺領十石の御朱印を賜はる、境内も其寺領の内なり、昔文禄四年大野八右衛門と云者田二反を寄附せり、よりて慶安年中に至り、先規の如く此御朱印を賜ひしなり、本尊三尊の彌陀立像にて長三尺餘、眼中へ真珠瑪瑙を入る、この像を車返しの彌陀と呼、其所以を訪ぬるに、此像元奥州秀衡の守護佛なりしを、右大将頼朝の所望に因て鎌倉へ持行んと、奥州よりはるばる携出武蔵國府中の車返村まで来りしに、此事鎌倉へ聞へしかば、車を牽来て迎へけるに行逢たり、然るに此像鎌倉へ行くことを欲せず、此堀之内の地に安置せよとの告ありければ迎の人々空く車を返しけるとなり、夫よりかの車返の地名も起りしといへり、脇士観音勢至長各四尺、此二像は運慶の作なりと云、門前に建長八辰二月廿八日と書せし古碑立り、いかなる碑なること詳にせず。(新編武蔵風土記稿より)
所沢市教育委員会掲示による来迎寺の縁起
来迎寺は大光山無量寿院といい、詳しい歴史はわからないが、鎌倉時代の初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり、「車返しの弥陀」の伝説がある。
昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなり、やむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停ったので草堂を建てて三尊を安置したと伝えられています。(所沢市教育委員会掲示より)
来迎寺所蔵の文化財
- 板碑(所沢市指定文化財)
板碑
この碑は、高さ一五五センチ・幅五〇センチ・厚さ八センチあり、建長八年(一二五六)二月二十三日に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹治泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文字が刻まれている。(所沢市教育委員会掲示より)
来迎寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿