瑞岩寺。所沢市山口にある曹洞宗寺院

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瑞岩寺。山口氏の菩提寺、狭山三十三観音霊場

瑞岩寺の概要

曹洞宗寺院の瑞岩寺は、祥雲山と号します。瑞岩寺の創建年代等は不詳ながら、室町時代の初期に山口氏の菩提寺として創建されたと伝えられ、照室(天正元年1573年寂)が開山したといいます。狭山三十三観音霊場6番です。

瑞岩寺
瑞岩寺の概要
山号 祥雲山
院号 -
寺号 瑞岩寺
住所 所沢市山口400
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



瑞岩寺の縁起

瑞岩寺の創建年代等は不詳ながら、室町時代の初期に山口氏の菩提寺として創建されたと伝えられ、照室(天正元年1573年寂)が開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による瑞岩寺の縁起

(山口村)瑞岩寺
曹洞宗、郡内久米村永源寺末、祥雲山と號す、開山照室天正元年十二月十日示寂す、本尊十一面観音立像にて長三寸許、春日の作と云、此寺古は山口氏の菩提寺なりと云、山口但馬守某が位牌なりとて、本願信阿大禅定門貞治六年丁未九月十八日と書せしものあり、又故参州大守満叟實公大禅定門、永徳三年癸亥六月十三日といへるもあり、是も山口が一族などにてあるべしと云傳ふれど、すべて疑ふべし、按に山口家系に、但馬守重政慶長年中故ありて、當國川越に隠棲せり、其先祖始めて氏を山口と改めし、盛幸なるもの永享年中の人なれば、位牌に云所と年代ことに合はず、されば此人などの位牌にあらざることは論なし、下に出す寺寳の條に、山口平内左衛門と云人みゆ、小田原北條に仕へしといへり、又彼家の役帳に山口平六と云ものあり、平内左衛門が一族ならんか、因て思ふに當寺は是等が菩提寺にて、その祖先の位牌を置しもしるべからず、又此邊をすべて山口領と唱ふるは、武州七黨の山口より起りし地名にて、但馬守重政がしばしば此邊に隠遁せしをもて、かれがことに附會するは尤僻事なり、猶山口領名の條合せみるべし、外に古の地頭宇佐美助右衛門が位牌あり、正法院殿傑叟浄英大居士慶長二十年十月十一日と書す、此人及び久貝惣左衛門の墓あり、客殿に撞鐘をかく、延寳六年の鐘をえりたれど、考證とすべきことなければ全文はのせず、ことに其中武州高麗郡、祥雲山瑞岩禅寺の文見るは、たまたま郡をあやまり出せしと見ゆ。
寺寳。鞍一掛。地は黒漆にて金を以て桔梗の紋をつけり、今其紋は剥落して痕のみのこれり、是は山口平内左衛門が納めし山をいひ傳ふれど、いと古色なり。(新編武蔵風土記稿より)


瑞岩寺所蔵の文化財

  • 山口氏の墓塔(所沢市指定文化財)
  • 岩崎簓獅子舞(所沢市指定文化財)

山口氏の墓塔

山口氏は平安時代の末期、武蔵七党の一つ村山党から分かれ山口城に居住し、その後戦国時代にかけて武蔵武士の一員として活躍したことが知られています。
室町時代の初期に山口氏の菩提寺として創建されたと伝えられる瑞岩寺には、山口氏の墓塔が本堂西側に三基あり、いずれも五輪塔・宝篋印塔などの残欠部分で構成されています。特に向かって左側の塔の基礎部分には、「帰実禅門永徳三癸亥六月十三日」と彫られており、これは足利氏満と戦って永徳三年(一三八三)六月十三日に討ち死にしたという、瑞岩寺に伝わる山口城主・山口高実の位牌の紀年銘と一致しています。中世山口氏の消息を知る資料として貴重です。(所沢市教育委員会掲示より)

岩崎簓獅子舞

山口岩崎地区に伝わるこの獅子舞は、伝説によると当時この地を支配していた地頭の宇佐美助右衛門が慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣に戦功をたて、帰途京都に立ち寄って三頭の獅子舞を求め、村の若者に稽古をさせたのが始まりといわれています。
現在は「岩崎獅子舞保存会」が結成され、毎年十月の第二土曜日に瑞岩寺の境内で行われています。山伏・棒使い・ササラ・蝿追・獅子・笛の役があり、二〇名前後の人たちが演じます。
笹竹八本で三間四方を八角形に地取り蝿と注連を張った舞場の中で、二頭の牡獅子が一頭の牝獅子をめぐり激しく争い舞う様や、争いの後に平和な牡丹の花園に舞い遊ぶ情景を表現しています。(所沢市教育委員会掲示より)

瑞岩寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿