和樂備神社。渋川義鏡が蕨城の守護神として八幡神を勧請
和樂備神社の概要
和樂備神社は、蕨市中央にある神社です。和樂備神社は、蕨城に居城した渋川義鏡が城の守護神として八幡神を勧請し創建したと伝えられます。明治6年村社に列格、明治44年に蕨宿にあった18社を合祀、和樂備神社と改称したといいます。
社号 | 和樂備神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、稲荷社など18社 |
祭日 | - |
住所 | 蕨市中央4-20-9 |
備考 | 旧村社 |
- 和樂備神社鳥居
- 和樂備神社社殿
- 和樂備神社神楽殿
- 境内社稲荷社
- 境内社天神社
- 境内社御嶽・八海山・三笠山神社
- 和樂備神社木遣塚
- 境内社菓祖神
- 和樂備神社手水舎
- 境内社境内社建築三神
- 境内社津島牛頭天王
- 和樂備神社境内
和樂備神社の由緒
和樂備神社は、蕨城に居城した渋川義鏡が城の守護神として八幡神を勧請し創建したと伝えられます。明治6年村社に列格、明治44年に蕨宿にあった18社を合祀、和樂備神社と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による和樂備神社の由緒
(蕨宿)
氷川社二宇
位置は華蔵院の持にして、中を氷川と唱ふ、一は地蔵院の持にて、下の氷川とよべり。
稲荷社二宇
一は地蔵院、一は東光院の持なり。
八幡社
成就院持
神明社
福性院持
浅間社
同持
御嶽社
成就院持
道祖神社
蓮乗院持(新編武蔵風土記稿より)
新編武蔵風土記稿による和樂備神社の由緒
和楽備神社
中央4−20−9
当社の南の隣地には蕨城跡があり、境内に残る池は城を巡る濠の一部であった。社伝によれば、この蕨城に居城した渋川義鏡が城の守護神として八幡神を勧請したのが創建であるという。観応三年(一三五二)六月二十九日渋川直頼から嫡子金王丸(渋川義行の幼名)に譲られた所領のうちに「武蔵国蕨郷上下」が見える(「渋川直頼譲状写」賀上家文書)。長禄元年六月渋川義鏡は室町幕府から関東下向を命じられた。それは義鏡の曾祖父義行が蕨を居城としていた関係によるという(鎌倉大草紙)。これらのことから当社の創建の年代は、長禄元年以降のことであろう。ちなみに、当社で最も古い史料は、天正十一年(一五八三)九月に作られた僧形八幡神像で「蕨之郷若宮」の銘がある。天正十八年(一五九〇)小田原北条氏滅亡の翌年に渋川氏の子孫は断絶した(宝樹院墓碑)。渋川氏の将兵の多くは蕨地方に土着したという。
慶長七年から元和年間(一六〇二ー二四)にかけて元蕨(現戸田市)からの移住者と以前からの住民とを合わせ、江戸時代の蕨宿が成立した。以後、当社は蕨宿の上の「鎮守として崇敬されるようになった。「風土記稿」蕨宿の項には、「八幡社、成就院持」とある。別当の成就院は、宿内の三学院末の真言寺院で、八幡山と号していた。
神仏分離により別当の成就院から離れた当社は明治六年に村社となり、同二十七年に拝殿を改築した。更に、同四十四年には、蕨町内の各所から一八社の無格社を合祀し、社号を和楽備神社と改めた。合祀社は、蕨町大字蕨字宮田の氷川社・神明社・浅間社・御守殿社・天神社二宇・字荒井前の氷川社・天神社、字鍛冶作の春日社・神明社・道祖神社、字前谷の稲荷御嶽合社、字赤田の稲荷社、字金山の稲荷社・天神社、大字塚越丁張の稲荷社、字仁中歩の稲荷社・日枝社である。このうち天神社四社と稲荷社四社は、それぞれ合祭して末社の天神社と稲荷社として祀り、ほかの各社は本殿に合祀した。この時、丁張の稲荷社の本殿が彫刻の施された欅造りの荘厳なものであったことから、当社の本殿として移築された。和楽備神社の社名は、時の蕨町長岡田建次郎の知人であった国学者本居豊博士による命名である。
大正二年に本殿の覆屋を新築し、同十一年には社務所を建設した。その後、昭和二十五年に神楽殿の新築、同三十二年に旧第一蕨尋常高等小学校の校舎を移転改築しての神社会館の設置、同三十九年に幣殿・拝殿の改築、同四十九年に社務所の改築を行った。また、平成八年には不審火により社殿全焼の憂き目に遭うが、翌九年には再建を果たした。祀職は、明治初年から成就院の裔である赤尾光義が社掌として務め、明治三十年ごろから土屋武治が継ぎ、更に昭和十三年からは赤尾光義家の親戚の赤尾省三が継いで、現在に至っている。(新編武蔵風土記稿より)
和樂備神社所蔵の文化財
- 和楽備神社水盤(市指定有形文化財)
- 和楽備神社末社稲荷社本殿(市指定有形文化財)
和楽備神社水盤
和楽備神社境内の水屋にすえられている安山岩製の大形の水盤で、寛永寺旧在ともいわれている。
四隅を入隅式とし、水穴(現在は埋められて浅くなっている)も外形に合わせて成形しており、その縁に三段の段形を設けている。現正面下部は花頭曲線をえがいて加工し、他の三面下部は繰形を入れて、全体を四脚としている。現背面に四行にわたって銘文が陰刻されていたが、二次的に削られており、一部が判読されるに過ぎない。
この水盤の特徴は、非常に大形で四隅を入隅式とするところにあり、大形水盤は江戸時代初期にほぼ限られ、大名家墓所や格式のある社寺にみられる程度で、しかも入隅式の作例は、徳川家縁の場合が多いようである。
造立の時期は、様式手法などから江戸時代初期と考えられ、同時代の石造遺物として貴重な作例であると思われる。(蕨市教育委員会掲示より)
和楽備神社末社稲荷社本殿
この本殿は、和楽備神社の前身である宮田の八幡社本殿を稲荷社本殿として、現在の場所に移築したものです。一間社流造で、身舎(母屋)の幅一・二三m、奥行一・一二m、屋根はこけら葺き形銅板葺きとなっています。また稲荷社にふさわしく赤く塗装されており、蟇股・垂木・長押などの形から、十七世紀末から十八世紀初めの建立と考えられます。
流造の建物としては早い例であり、かつての蕨宿を代表する八幡社の本殿として大変貴重な建物です。(蕨市教育委員会掲示より)
和樂備神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿