宗像神社。荒川の氾濫を鎮めるために宗像大社を勧請
宗像神社の概要
宗像神社は、寄居町藤田にある神社です。宗像神社は大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を勧請して創建したといいます。その後いつしか宗像神社は忘れられ、聖天社の下社に「弁天社」として配祀されていましたが、明治維新後に聖天社と分離し宗像神社として独立、明治8年村社に列格、明治42年に地内の諸社を合祀しています。
社号 | 宗像神社 |
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祭神 | 多紀理比売命・狭依比売命、多岐津比売命 |
相殿 | - |
境内社 | 長男神社・丹生神社・罔象神社、二柱神社、稲荷大神、菅原神社、琴平神社、高根・浅間神社合殿、八坂神社、厳島神社 |
祭日 | 春祭4月3日、秋例祭11月3日、八坂神社祭7月13-15日 |
住所 | 寄居町藤田299-2 |
備考 | - |
宗像神社の由緒
宗像神社は大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を勧請して創建したといいます。その後いつしか宗像神社は忘れられ、聖天社の下社に「弁天社」として配祀されていましたが、明治維新後に聖天社と分離し宗像神社として独立、明治8年村社に列格、明治42年に地内の諸社を合祀しています。(聖天社は、象ヶ鼻が国有化された明治初期に立ち退きを迫られ、極楽寺聖天堂として移築)
寄居町・埼玉県掲示による宗像神社の由緒
宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郷)の宗像大社の御分霊を移し祀ったものです。
宗像大社は文永弘安の役(蒙古来襲)など北九州の護りや海上の安全に神威を輝かしていました。
この地に御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、人々の崇敬を篤くしました。
藤田五郎政行が花園城主(平安時代)として北武蔵一帯を治めるにあたり、ここを祈願所とし、北条氏もまた祈願所にしていました。
春祭は4月3日、秋の例祭は11月3日で、当日は江戸時代から伝わる山車7台を引き揃え、神幸の祭事がにぎやかに行われます。
なお、拝殿には寄居町出身の名彫刻家、後藤功祐の彫った市神様社殿があり、町の指定文化財として保存されています。
祭神は、天照大神の御子である多紀理比売命・狭依比売命、多岐津比売命です。(寄居町・埼玉県掲示より)
「埼玉の神社」による宗像神社の由緒
宗像神社<寄居町藤田二九九-二(藤田字藤ノ森)>
秩父山中から流れ出し東京湾へと注ぐ荒川は、かつては「暴れ川」として恐れられ、大雨の後には必ずといってよいほど氾濫し、その流路も幾度となく縦横に変わっている。治水の技術が発達した今日では、洪水もほとんど起こらなくなったが、昔は、その流域に住む人々は毎年のように洪水の害を被っていた。そのため、流域の村々では、川の岸辺に治水の神を祀り、少しでも洪水がなくなるようにと祈ったものであった。荒川を見下ろす段丘上に鎮座する当社もまた、そうして祀られた社の一つである。
社記によれば、当社の創建は、文武天皇の大宝元年(七〇一)十一月であるといい、次の話が伝えられている。当時、この地は、毎年のように荒川の氾濫に苦しめられていたため、川を鎮め、舟筏の交通を守護してくれるようにと、筑紫(現福岡県)に鎮座する宗像大社の分霊を奉斎した。すると、その次の年の夏、未曾有の大洪水があり、その濁流が岩を削り、砂を洗い流し、荒川の流れを定めたため、以来、この地では洪水に苦しめられることはなくなり、住民はその神徳に感謝し、敬神の念を一層深めたという。しかし、その後、宗像神社の名は、史料の上には明治初めの神仏分離まで現れてこない。それに代わって登場するのが聖天社である。
縁起によれば、聖天社は、嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)、唐から帰朝した空海が修行のために全国を回っている途中、隅田川の源を訪ね入ったところ当地の象ケ鼻に至り、その風光明娼で聖らかなことに感銘し、岩窟に歓喜天の尊像を刻んで社殿を設けたことに始まる。空海は、新たな霊場を求めて旅立って行ったが、郷人は、天長三年(八二六)に祠堂を整え、真言宗極楽寺を別当となし、当社と共に厚く信仰するようになったという。聖天社は、また、武将の信仰も厚く、藤原基常・源頼義・源義家といった武将が同社に祈願し、武功を遂げたという話も縁起に伝わっている。とりわけ義家は聖天法六句にちなみ六堂を建立して同社を藤田郷十二か村の総鎮守としたという。なお、鉢形域主北条氏邦も同社への崇敬が厚く、社領二〇石を寄進し、居城の鎮守として祀っており、鉢形落城の後は、徳川将軍家から代々朱印状を賜り、その社領二〇石を除地として安堵されている。
こうした聖天社の繁栄の陰で、中世・近世の当社がどのような状況であったかは、史料もなく、定かではない。ただ『風土記稿』にもあるように、聖天社には男体を祀る上社と女体を祀る下社があり、象ヶ鼻にあった社は上社で、下社は当社に配祀されていたということだけが知られている。ただし、衰微は相当進んでいたらしく、幕末の地図にも当社の位置には「聖天下宮・弁天社」などと記されているだけで「宗像神社」の文字は見えない。ちなみに「弁天社」とは、現在摂社となっている厳島神社のことで、古くからこの地に水の神として祀られていた社であるという。しかし、この社は弁天社とは言っても、祭神は当社と同じ多岐理比賣命・狭依比賣命・多岐都比賣命の三柱であり、衰微した状態にあった当社が、いつのころからか弁天社として祀られるようになったものではないかと考えられている。
明治維新を迎え、神仏分離が行われたのを機に、当社は聖天社と分離し、宗像神社の旧号に復した。この時、旧別当極楽寺の第六一世の住職藤田賢皎の弟子竜海が復飾し、藤田勇を名乗って神職となり、その後、学・善作・郁太郎と代々社掌・宮司を務め、昭和四十三年からは藤田薫がこれを継いで宮司に就任し、現在に至っている。なお、同家保有の文書には、竜海の復飾願をはじめ、神仏分離期の状況を伝える貴重な史料が多い。
当社の本殿は、古いものといわれており、棟札はないが、社記には正保元年(一六四四)に補修彩色を加え、続いて寛政二年(一七九〇)と明治二十一二年に屋根の葺き替えを行ったことが記録されている。また、昭和九年には、当時行われていた拝殿の改築に合わせ、老朽化の進んだ本殿の基礎・向拝への補強や修繕も加えられた。
昭和四十一年九月の台風の猛威はすさまじく、樹齢四、五百年の杉の大木が昼なお暗いほど茂り「藤の森」と呼ばれていた当社境内の樹木のほとんどを倒してその景観を一変させた。そのため、当社では、かつての「藤の森」を復元すべく植林を進めている。(「埼玉の神社」より)
宗像神社所蔵の文化財
- 旧市神様社殿(寄居町指定文化財)
旧市神様社殿
寄居町出身の彫刻家後藤功祐によって明治初期に作られたとされる、高さ約1.2メートルの社殿です。
正面の屋根が曲線形に手前に延びて向拝(ひさし)となる「流造」と呼ばれる構造を持ち、細密な彫刻が全体に施されています。
旧寄居町市街地の開拓当初には、市神様としてまつられ、商業の守り神として多くの人の信仰を集めていましたが、明治四十二年に小社合祀を行った際、ここに移され、現在は拝殿の中に保管されています。(寄居町教育委員会掲示より)
宗像神社の周辺図