極楽寺。武州寄居七福神の弁財天・毘沙門天
極楽寺の概要
真言宗豊山派寺院の極楽寺は、象頭山聖天院と号します。極楽寺は、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守として象ヶ鼻に創建したといいます。応永年間、中興の祖秀永が新義真言に改め、聖天院及び六院を別当宗務、北条氏邦は鉢形城の鎮守とした他、江戸幕府から寺領20石の朱印状を拝領していたといいます。明治維新の神仏分離に伴い、上宮は国有地となり当地へ移転、下宮は宗像神社となったといいます。当寺の弁財天・毘沙門天は、武州寄居七福神の弁財天・毘沙門天となっています。
山号 | 象頭山 |
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院号 | 聖天院 |
寺号 | 極楽寺 |
住所 | 寄居町藤田249 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 歓喜天(聖天) |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 武州寄居七福神の弁財天・毘沙門天 |
極楽寺の縁起
極楽寺は、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守として象ヶ鼻に創建したといいます。応永年間、中興の祖秀永が新義真言に改め、聖天院及び六院を別当宗務、北条氏邦は鉢形城の鎮守とした他、江戸幕府から寺領20石の朱印状を拝領していたといいます。明治維新の神仏分離に伴い、上宮は国有地となり当地へ移転、下宮は宗像神社となったといいます。
寄居町・埼玉県掲示による極楽寺の縁起
極楽寺
真言宗の寺で、象頭山聖天院極楽寺と称し、弘仁年間、弘法大師が諸国を布教行脚の途上、この地の荒川岸壁の岩頭の一角が大海を渡る巨象の姿を思わせることを奇とし、霊地と定めて自ら聖天像を彫り、自證に託して護法の鎮守としたことが開山の初めと伝えられています。
聖天(歓喜天)は象面人身双体の天部仏尊で、民衆には和合福徳豊饒を、為政者には鎮護国家の法力を授けるものとして信仰されています。当聖天は多く武家棟梁の尊信を集めたといわれ、中世期には源経基、源義家、秩父十郎武綱らが、藤田郷一円十二ヵ村を寄進してその総鎮守とし、六院を建立したと伝えられる。近世では北条氏邦が鉢形城の鎮守とし、徳川将軍家は代々朱印地20石を寄進して政道と民心の安泰を願いました。
当寺は古くは聖天信仰を通じて古義真言を広めたが、応永年間、中興の祖秀永が新義真言を究め、教義格式を整えて聖天院及び六院を別当宗務し、法燈を輝かせました。歴史の変遷を経、聖天院も明治末年に大師ゆかりの「象が鼻」より現在地に遷座されるに至ったが、附近の「六供」の地名などに、聖天の法にいう「六供六坊」を擁した往昔が推測されます。(寄居町・埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による極楽寺の縁起
(古寄居村・寄居新組村・新寄居村)聖天宮
荒川の涯象ヶ鼻と云所にあり、此所新寄居に属す、社を或は上ノ宮とも呼ぶ、傳に云光明皇后霊夢に由り刻ませ賜ふ共、又は弘法大師の作とも云、秘佛にしてみることを許さず、これ藤田郷の総鎮守なししが、今は寄居三村の鎮守とす、弘法大師の勧請にて、天長三年の棟札ある由なれど、是も社内に秘して見ることを得ず、此邊荒川の幅凡三百間程砂利の間を屈曲して幾條にも流れ、水勢厲しく、左右の岸は絶壁峙ち、仰見れば秩父郡釜伏山高く聳え、男衾郡折原鉢形の山々連れる様、尤景勝の地なり、又社より一階低き所に社あり、此を下ノ宮と云、或は上ノ宮を男体とし、下ノ宮を女体とすると、此上下の宮に彼是伝説あれど、永享の文書既に上下の別あれば、奮くより二社ありしこと知らる、天正十八年の乱に社廃せしかば、御入国の翌年社領二十石の御朱印を賜へり、奮社の故を以てなり、境内に天狗腰掛松・相生松・連理の杉等あり。
別当極楽寺
新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末、象頭山聖天院正乗坊と云、文書によれば古乗円坊と唱へしことしらる、法流開山秀永応永二十四年二月十三日示寂、鎌倉管領の始までは、法親王の法弟にて、秘密の道場たりしに、兵乱の後一たび衰廃し、天正年中聖範弟子実廣といへるもの住職せし頃、今の堂宇再興せしとなり、本尊阿弥陀。
(花押文書省略)
本地堂。
元は上宮の傍にありしが、元禄年中境内に引移せり、本地十一面観音は行基の作なり、外に役小角の像を安ず、腹内に応永廿三年秀永造立と有り。
弁天社、天満宮、稲荷社二。(新編武蔵風土記稿より)
武州寄居七福神霊場会・寄居町観光協会掲示による極楽寺の縁起
創建は、弘仁十年(平安時代、千百七十年前)弘法大師が当地像ヶ鼻に歓喜天(聖天)を勧請されたのに始まる。下って当聖天は源氏の武将の信仰を集め源義家は七面伽藍、六供六坊を建立し、聖天宮は像ヶ鼻に上社、現宗像神社の地に下社が祀られた。明治の宗教改革廃仏毀釈により象ヶ鼻は国有地となり上社は現境内地へ移転、下社は宗像神社となった。聖天の祭礼は宗像神社の祭礼となり、今も聖天の双股大根の絞をつけた山車が数台ある。明治政府は神道を盛り立て多くの寺院を取壊したが、日露戦争ではさすがに寺院にも戦勝祈願し当聖天には戦利品の大砲と砲弾を寺内陸軍大臣の戦利兵器奉納書を副えて奉納した。又内務省より保存資金が下附された。
聖天は本地十一面観音で、当山の尊像は新編武蔵風土記稿では行基作としている。江戸時代には当聖天は江戸市民にも広く信仰され今も玉垣等にその名残りをとどめる。
聖天は厚く信仰する善男善女には他の神仏が見はなす事でもかなえて下さると言われ、殊に商売繁昌、厄除、縁結、学業成就の御利厄がある。毘沙門天、弁財天は聖天とは特に密接な関係にあり聖天下社には弁財天が合祀されていた。又毘沙門天もお祀りされていたことが伺える。ここに毘沙門天、弁財天を復活勧請し聖天を中心として檀信徒の海運厄災を請願う次第です。(武州寄居七福神霊場会・寄居町観光協会掲示より)
極楽寺の周辺図