鉢形八幡神社。寄居町鉢形の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

鉢形八幡神社。旧鉢形町の総鎮守

鉢形八幡神社の概要

鉢形八幡神社は、寄居町鉢形にある神社です。鉢形八幡神社の創建年代等は不詳ながら、文明年間(1469-1487)に長尾景春が修築、後に北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として祀られていました。天正18年(1590)に鉢形城が落城した後は、鉢形町も6ヶ村に分かれ、当社は白岩・内宿・天粕・関山の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格していました。

鉢形八幡神社
鉢形八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 浅間大神、御嶽・三峰・厳島・姥宮・琴平・雷電、荒神、古峯、手長男神社
祭日 例大祭4月3日、大祭10月14・15・16日、例大祭11月23日
住所 寄居町鉢形1168
備考 -



鉢形八幡神社の由緒

鉢形八幡神社の創建年代等は不詳ながら、文明年間(1469-1487)に長尾景春が修築、後に北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として祀られていました。天正18年(1590)に鉢形城が落城した後は、鉢形町も6ヶ村に分かれ、当社は白岩・内宿・天粕・関山の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による鉢形八幡神社の由緒

(男衾郡白岩村)
八幡社
當村及内宿・甘粕・關山四ヶ村の鎮守なり、千手院持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による鉢形八幡神社の由緒

八幡神社<寄居町鉢形一一六八(鉢形字八幡台)>
自然の要害を利用した鉢形誠は、文明年間(一四六九-八七)に長尾景春によって修築され、後に北条氏邦の居域となり、天正十八年(一五九〇)の落城まで、北関東支配の拠点として重要な役割を果たしてきた。現在、寄居町の大字鉢形となっている地域は、この鉢形城の城下町として中世から栄えてきた所で、当時は鉢形町と呼ばれていた。
当社は、この鉢形町の総鎮守として代々の領主の崇敬が厚く、永禄年間(一五五八-七〇)には時の城主北条氏邦によって再建されている。このように、鉢形域と深い関係があったことは、当社に多くの幸いをもたらしたが、同城の落城に際しては、当社もまた敵方の兵火に罹って烏有に帰するという不幸な出来事もあった。同域は、落城の後廃城となったが、当社の方は氏子の力によって再建され、本山派修験の千手寺が別当としてその祭祀に当たった。ただし、城下として繁栄を誇った鉢形町は、廃城と共に衰微し、江戸時代には木持出・白岩・内宿・天粕・関山・立原の六か村に分かれ、木持村は氷川神社(現稲乃比売神社)を、立原村は諏訪神社を鎮守として祀るようになった。
『風土記稿』に「八幡社 当村(白岩村)及内宿・天粕・関山四か村の鎮守なり、千手院持」とあるのは当時の状況を表したものである。
嘉永四年(一八五一)一月三日、荒川対岸の寄居に発生した大火災は、折からの強風によって当地にまで飛び火し、民家七〇戸をはじめ地内の六か寺及び鎮守社を焼き尽くしたと記録されている。寄居町大火として知られるこの火災によって当社は再び全焼の憂き目に遭ったのである。その後、氏子は直ちに仮宮を設け、祭りを再開し、一五年後の慶応二年(一八六六)には立派な社殿が再建された。
明治初年の神仏分離によって、別当千手寺の管理を離れた当社は、明治五年に村社になった。ところが、大正二年十二月二日にはまたもや火災によって本殿・拝殿を焼失するという事態が起こった。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同八年七月十二日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用された。
文禄年中(一五九二-九六)に千手寺の別当職に就いて以来、今日まで当社の祭祀を担ってきたのが、逸見家である。その祖先の義重は北条氏邦の侍大将を務めた武士であったが、落城に際し家臣離散の時にあって、城主が代々崇敬してきた八幡社を守るべく当地に土着し、更に孫の義貞が千手寺を復興し、その初代別当になったという。(「埼玉の神社」より)


鉢形八幡神社の周辺図