元巣神社。比企郡吉見町江綱の神社

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元巣神社。水を司る啼沢女命を祭神

元巣神社の概要

元巣神社は、比企郡吉見町江綱にある神社です。元巣神社の創建年代等は不詳ながら、天文元年(1532)藤原重清が勧請したとも、永禄7年(1564)に小田原北条氏に敗れた野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農して当村を開拓する際に勧請したともいいます。祭神は水を司る神として、啼沢女命(本社畝尾都多本神社、伊弉諾命の涙から生じた神)で当社を「命綱の神」とか「命乞いの神」とも呼ぶといいます。江戸期には江綱村の鎮守として祀られ、明治4年村社に列格、明治40年村基稲荷社、万太郎稲荷・浅間社・天神社・諏訪社(頭殿大神社)を合祀しています。
社号の「元巣」が「元に戻る」と受け取れることから、戦時中には、出征兵士の無事帰還祈願が盛んとなり、ついには当時の神職は私服憲兵隊に捕らえられ追放されてしまい、昭和20年までは江綱神社と号していたそうです。

元巣神社
元巣神社の概要
社号 元巣神社
祭神 啼沢女命・伊邪那岐神
相殿 -
境内社 頭殿社、天神、万太郎稲荷、村基稲荷、富士浅間、三峰
祭日 例祭4月19日
住所 比企郡吉見町江綱1501
備考 -



元巣神社の由緒

元巣神社の創建年代等は不詳ながら、天文元年(1532)藤原重清が勧請したとも、永禄7年(1564)に小田原北条氏に敗れた野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農して当村を開拓する際に勧請したともいいます。祭神は水を司る神として、啼沢女命(本社畝尾都多本神社、伊弉諾命の涙から生じた神)で当社を「命綱の神」とか「命乞いの神」とも呼ぶといいます。江戸期には江綱村の鎮守として祀られ、明治4年村社に列格、明治40年村基稲荷社、万太郎稲荷・浅間社・天神社・諏訪社(頭殿大神社)を合祀しています。
社号の「元巣」が「元に戻る」と受け取れることから、戦時中には、出征兵士の無事帰還祈願が盛んとなり、ついには当時の神職は私服憲兵隊に捕らえられ追放されてしまい、昭和20年までは江綱神社と号していたそうです。

新編武蔵風土記稿による元巣神社の由緒

(江綱村)
元巣明神社
村の鎮守なり、祭神詳ならず、當社の名戻の訓に近きとて、嫁娶のときは社前を避忌と云、
--
天神社
稲荷社二宇
淺間社
以上寶性寺の持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による元巣神社の由緒

元巣神社<吉見町江綱一五〇一(江綱字下屋敷)>
当地は、市野川左岸に位置し、集落は主に自然堤防上に形成されている。江綱の地名は、河川にかかわると考えられ、また社名「元巣」も、鎮座地が元は洲であったことに由来する。社蔵の文化十六年(一八一九)六月の「武蔵国横見郡江綱村墨引兼絵図」には、市野川左岸に「元巣社」が記されている。
当社は、社伝によれば、大和国の畝傍山の麓に鎮座する畝尾都多本神社の分霊を勧請したと伝える。畝尾都多本神社の祭神は、伊弉諾命の涙から生じた啼澤女命で、「哭澤の杜」に祀られる古社であり、延喜式内社である。この神を祀る社は、関東では当社のみであることから「関東一社」の別名がある。恐らく、涙が水沢のごとく流れるの意から沢とかかわり、またサワメが雨にも通じる語であるので、いずれにしても水を司る神として祀られたことは明らかである。ちなみに、氏子は当社を「命綱の神」とか「命乞いの神」と呼んでいる。
当地の開発は、「小高家文書」によると、永禄七年(一五六四)に小田原北条氏に敗れた太田氏や里見氏に与した野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農したことにより始まったと伝える。また、同文書に、江綱基屋敷東浦の地に稲荷大明神の石宮を建立したことを記し、その石祠にも七人の名前が刻まれている。この稲荷神は、俗に「村基稲荷社」と呼ばれている。明治四十年に、当社の境内社として合祀された。
当社の創建年代は不明であるが、村の鎮守となるのは江綱村の開発が進み耕地面積が拡大した江戸中期と考えられる。それは、隣村の大串の「田中家文書」に、享保八年(一七二三)と宝暦年間(一七五一-六四)の市野川大改修のことを記しており、当地の水田、約六十町歩はそれ以後の開発であるため、当社が村の発展と共に鎮守となるのは、宝暦期の末のことになる。また、境内には「正一位元巣大明神」と刻まれた文化元年(一八〇四)の手水鉢が残されている。正一位の極位については、社記に寛永七年(一六三〇)八月二十七日に授与されたと伝える。
別当は、『風土記稿』によれば、吉見の御所村息障院の末寺である真言宗宝性寺である。同寺は当社の祭事を管理してきたが、明治初年の神仏分離により分かれ、その直後の同四年に当社は村社となった。氏子の敬神の念は更に厚く、同十九年に額殿が建立された。当時の祠掌は高橋内記、氏子総代は小高佐助・小高晋一郎・小高豊一郎と社蔵棟札に記されている。
明治四十年に、村基稲荷社と共に、稲荷社(万太郎稲荷)・浅間社・天神社・諏訪社(頭殿大神社)が当社に合祀された。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による元巣神社の由緒

元巣神社はその昔、大和国畝尾啼沢の社より女神啼沢女命を御霊星御奉斎いたしました。
関東地方では、只一社の御社でありますので関東一社とも称せられて、古くから上下の信仰が極めて厚い神社であります。
御奈良天皇の御代天文元年藤原重清がこの地方に下向いたしましたが、当時庶民が水難に遭い、病に苦しむ状をあわれみ、病気平癒と五穀豊穣の祈請したと謂われ、また源頼朝は特に元巣神社尊信し、大串次郎重親を使として厄難消除道中安全祈願祭を数度に亘り斎行したところ、神徳の顕現により種々の危難を脱れたと伝えられております。
爾来、元巣神社の御社名いよいよ高く、諸民の尊崇を受けて社殿の造営、祭事の厳修等御社運は隆盛をきわめ寛永七年八月二十七日宗源宣旨を以って正一位を授けられた御神威の輝かしい神社であります。(境内掲示より)


元巣神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)