下銀谷稲荷神社。下銀谷村の鎮守として奉斎
下銀谷稲荷神社の概要
下銀谷稲荷神社は、比企郡吉見町下銀谷にある神社です。下銀谷稲荷神社は、銀谷村が上下に分村して30年ほど経た享保2年(1717)に下銀谷村の鎮守として奉斎したといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂神 |
相殿 | - |
境内社 | 八坂社、八幡社 |
祭日 | - |
住所 | 比企郡吉見町下銀谷1 |
備考 | - |
下銀谷稲荷神社の由緒
下銀谷稲荷神社は、銀谷村が上下に分村して30年ほど経た享保2年(1717)に下銀谷村の鎮守として奉斎したといいます。
新編武蔵風土記稿による下銀谷稲荷神社の由緒
(稲荷社
村の鎮守とす、青雲寺の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下銀谷稲荷神社の由緒
稲荷神社<吉見町下銀谷一(下銀谷字宅地東通)>
下銀谷の地は、もと銀谷村の内であったが、貞亨二年(一六八四)に上下に分村した。地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。
社伝によると、第五一代平城天皇の御代である大同年間(八〇六-一〇)に一つの村落として開かれてより神明社(現在の上銀谷の鎮守)を久しく崇敬してきたが、分村後三十年余を経た享保二年(一七一七)に下銀谷村の鎮守として稲荷神社を奉斎した。安政二年(一八五五)に石段を建設し、文久三年(一八六三)には石鳥居を建立したという。
『風土記稿』には「稲荷社 村の鎮守とす、清雲寺持」とあり、清雲寺については「新義真言宗、御所村息障院末、本尊不動を安ず、天王社」と載る。同寺は祭りの花火による失火が原因で周囲の民家と共に焼失したと伝えている。その跡地には現在下銀谷の集会所がある。
本殿両脇に二つの石祠がある。一つは八坂社(旧天王社)で、明治四十年に清雲寺跡地から移された。もう一つは八幡社で、その由来は明らかでない。共に天明八年(一七八八)の年紀が刻まれている。(「埼玉の神社」より)
下銀谷稲荷神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)