北下砂氷川神社。関根兵部左衛門が慶長2年に勧請
北下砂氷川神社の概要
北下砂氷川神社は、比企郡吉見町北下砂にある神社です。北下砂氷川神社は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長2年1597年没)が慶長2年(1597)に勧請、下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫)の鎮守として崇敬されていたといいます。元禄年間(1644-1704)に北砂村が分村、一村の鎮守としたといいます。明治4年に村社となり、明治45年には字大根町の無格社弁天社を合祀しています。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素戔嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭7月14・15日 |
住所 | 比企郡吉見町北下砂11 |
備考 | - |
北下砂氷川神社の由緒
北下砂氷川神社は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長2年1597年没)が(慶長2年(1597)に勧請、下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫)の鎮守として崇敬されていたといいます。元禄年間(1644-1704)に北砂村が分村、一村の鎮守としたといいます。明治4年に村社となり、明治45年には字大根町の無格社弁天社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による北下砂氷川神社の由緒
(北下砂村)
氷川社
村の鎮守なり、竜淵寺持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による北下砂氷川神社の由緒
氷川神社<吉見町北下砂一一(北下砂字宮ノ町)>
北下砂の地は荒川と市野川の間の低地にある。もと下砂村の内であったが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)に分村した。地名は北部にあることによって北の字を冠した。
氏子の関根彰一郎家は、名主を務めた旧家で、松山城落城後に当地に土着したと伝えている。「天正庚寅松山合戦図」には、北曲輪の守備に関根将監・関根伝衛門の二人の名が見え、関根家とのかかわりをうかがわせる。
また、関根家所蔵の「関根系記」によると、関根根元屋敷開祖兵部左衛門は慶長八年(一六〇三)に没し、金剛院に葬られた。
一方、社伝によれば、当社は慶長二年(一五九七)に創建し、初めは下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫の範囲)の鎮守として崇敬されていたが、分村後は北下砂村の鎮守になったという。当社の創建に関根兵部左衛門がかかわっていたことは想像するに難くない。
『風土記稿』北下砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、竜淵寺持」とある。これに見える竜淵寺は氷川山と号する真言宗の寺院で、開基はこちらも関根兵部左衛門であると伝えている。
明治四年に村社となり、同四十五年には字大根町の無格社弁天社を合祀した。(「埼玉の神社」より)
北下砂氷川神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)