氷川山龍淵寺。比企郡吉見町北下砂にある真言宗智山派寺院

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氷川山龍淵寺。関根兵部左衛門が開基

龍淵寺の概要

真言宗智山派寺院の龍淵寺は、氷川山と号します。龍淵寺は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長2年1597年没)が開基となり創建、北下砂氷川神社の別当寺を勤めていました。当寺の龍淵寺宝篋印塔と、塔内の銅版経は吉見町の考古資料に指定されています。

龍淵寺
龍淵寺の概要
山号 氷川山
院号 -
寺号 龍淵寺
本尊 -
住所 比企郡吉見町北下砂
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



龍淵寺の縁起

龍淵寺は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長2年1597年没)が開基となり創建、北下砂氷川神社の別当寺を勤めていました。

新編武蔵風土記稿による龍淵寺の縁起

(北下砂村)
龍淵寺
新義眞言宗、今泉村金剛院末、氷川山と號す、本尊不動を安ず、開基關根兵部左衛門は村民なり、慶長二年死す村内に一族八人あり、祖先は松山の士なりと云、
地蔵堂(新編武蔵風土記稿より)


龍淵寺所蔵の文化財

  • 龍淵寺宝篋印塔及び塔内納入品(吉見町指定考古資料)

龍淵寺宝篋印塔及び塔内納入品

吉見町大字北下砂地内にある龍淵寺の宝篋印塔及び塔内納入品は、宝篋印塔の銘文・党内納入品の箱書き・銅版経の刻印から宝暦九年(一七五九)の十~十一月に造塔されたことが確認できる。宝篋印塔は基壇から宝珠まで全て残存し、総高二三五・五cmを測る。願主は関根氏某、施主は北下砂村中・龍淵寺法印定恵代とある。
宝篋印塔とは密教系の石造塔で、供養塔として造られたものである。鎌倉時代中期に出現し、宝篋印陀羅尼経という仏教の経典を塔内に納め、礼拝供養をおこなった。したがって、龍淵寺の宝篋印塔も先祖供養・家内安全・子孫繁栄を祈願して建立されている。
塔内納入品は八cm×十三・二cm(高さ)の木箱に収められており、紙本の宝篋印陀羅尼経が数遍、銅版の宝篋印陀羅尼経が一遍、仏舎利五粒が収められていた。このうち銅版経は全国的にみても類例が少なく、特に宝篋印塔内から発見された例はあまりないので、大変貴重な歴史(考古)資料と言える。
銅版経とは銅版に経文を刻んだものである。経文を写経する場合、紙本経となることが一般的であるが、紙以外の材質を使うものとしては瓦経・滑石経・礫石経などもある。銅版を使用する理由としては、紙本が腐朽しやすいのに対して、写経した当時のままで残りやすく、経文が永続的に残ることが挙げられる。
水害の多い吉見町内にあっては腐朽しやすい紙本に加えて、銅版経を選択したものと考えられ、吉見町の特徴と言える。江戸時代の水害としては、享保六年(一七二一)、寛保二年(一七四二)の大洪水が有名で水死者・家畜の溺死・作物の被害の記録が残されている。また、新井家文書には明和三年(一七六六)から享和二年(一八〇二)までの記録「出水控書」や、天明六年(一七八六)の「出水見聞日記」にも洪水の被害が記録されている。(吉見町教育委員会掲示より)

龍淵寺の周辺図