髙負彦根神社。延喜式内社
髙負彦根神社の概要
髙負彦根神社は、比企郡吉見町田甲にある神社です。髙負彦根神社は、和銅3年(710)に創建した、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列しています。当社の鎮座する玉鉾山(ポンポン山)そばには、かつて荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた吉志氏との関わりが推測されています。江戸期には田甲村の鎮守として祀られていました。
社号 | 髙負彦根神社 |
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祭神 | 味鉏高彦根尊、大己貴尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭7月18日 |
住所 | 比企郡吉見町田甲1945 |
備考 | - |
髙負彦根神社の由緒
髙負彦根神社は、和銅3年(710)に創建した、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列しています。当社の鎮座する玉鉾山(ポンポン山)そばには、かつて荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた吉志氏との関わりが推測されています。江戸期には田甲村の鎮守として祀られていました。
新編武蔵風土記稿による髙負彦根神社の由緒
(田甲村)
高負比古根神社
村の鎮守なり、例祭九月十九日、當社は【延喜式】神名帳に載る所の高負比古神社にして、祭神は眛鉅高彦命、或は素戔嗚尊なりとも云、中古以来玉鉾氷川明神と稱せし由なれど、果して古の式社なりしや、未詳にせず、社の後背は高十一間許なる巌石の丘にて、その内社によりたる邊踏鳴せば、鼓の如く響きある處あり、そこを玉鉾石と稱す、又通じて玉鉾山とも號せり、玉鉾神靈の寓すると云意なる歟、よりて玉鉾氷川といひしとみゆ、又社傍によもぎの松と云あり、圍み一丈餘社、前に湊石と云あり、共に由来詳ならず、村内福聚寺の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による髙負彦根神社の由緒
髙負彦根神社<吉見町田甲一九四五(田甲字岩下)>
田甲は旧荒川の水利とともに交通条件に恵まれ、古くから開けていた。東南の丘陵部には旧荒川筋が残り、そこへ突き出るかのように望める岩山が玉鉾山である。その頂上に鎮座するのが当社である。岩山の下にかつては湊石があり、船の綱を結んだ石と伝えられ、船着き石とも呼ばれていた。上流の八ツ林には船木神社があり、その付近には冑山古墳や埼玉古墳群が存在することから、やはり古代の水運の要所と考えられている。そして、下流の川越市吉野地区からは縄文後期の丸木舟が出土しており、当地の発達も同時期に比定されている。
当社の周辺は、奈良時代の集落地跡「高負彦根神社周辺遺跡」として有名である。また、吉見町は安閑天皇元年(五三四)に置かれた横渟屯倉の推定地であり、大化前代に集落地が既に存在していたとみてよいであろう。屯倉管理のための吉志氏の当地派遣が考えられ、正倉院の調庸墨書に「横見郡御坂郷日下部」とあり、神護景雲二年(七六八)には橘樹郡の「飛鳥部吉志五百国」が朝廷に白雉を献上した記事がある。後の承和十二年(八四五)、国分寺の七層塔焼失に当たり、男衾郡の郡司大領(長官)の「壬生吉志福正」が再建している。これら吉志氏は摂津を本拠として海洋貿易などで膨大な経済基盤を持つ豪族である。一族は政治・経済はもとより祭詞においても重要な地位を占めていた。ちなみに大嘗祭に奏上される吉志舞は、吉志一族に伝承されていた歌舞である。
当社は『延喜式』神名帳に載る式内社である。朝廷から幣帛を受ける官社となったのはかなり早く、宝亀三年(七七二)の太政官符に天平勝宝七年(七五五)の官符が引かれており、武蔵国の班幣対象社四社の内に「横見郡高負比古乃社」とみえる。郡内の式内社は後に三社となるが、奈良時代に官社に預かったのは当社のみであった。これは重要な意味を有しており、律令国家が班幣制度により在地の祭祀権を保証することは、中央政府の地方行政権把握と結びついていたのである。官社列格には、在地の有力支配者と民衆の厚い信仰が背景になければ不可能であったから、奈良時代以前における武蔵国の中心的な役割を担う発達した勢力の存在を示している。こうした班幣社は、国家大事の際に神験が期待されたが、宝亀三年官符は、入間郡の正倉が火災に遭ったため、武蔵国内四社に奉幣したことを記している。
このように、当地一帯は大化前代から中央との結びつきが強く、有力豪族が領しており、当社は殊に国家崇敬の重要な官社として、律令祭祀に組み入れられたのである。
平安時代末から鎌倉時代には、源頼朝の弟の範頼が当地方を領有しており、その子孫が四代にわたり吉見氏を称している。強大な支配権を持っていたとみられ、その城館は「吉見の御所」と呼ばれる中世遺跡となっている。しかし、永仁四年(一二九六)以降、吉見氏は勢力を失い、その後は有力支配者が入った形跡もないことから、郡内の有力農民層に分割領有されたものと考えられている。字名に地頭方が残っているのも、そのような土着の地頭たり得る名主などの存在をうかがわせる。
中世の支配体制の推移の中で、当社は次第に衰微していったのであろう。その間の当社の様子はわからないのであるが、天明三年(一七八三)に再興され、社頭が整備されている。また『風土記稿』に「村内福聚寺の持」とみえ、別当の管理下にあった。福聚寺は新義真言宗の寺で天正十九年(一五九一)に秀伝阿闍梨が本尊を当地に遷座し、鎮護国家の大法を修したことで知られる。このころは当社がかつて国家護持の有力社であったことは既に忘れ去られていたとしても、当地の信仰上の重要性を物語っている。
当社の社号は、中世には玉鉾氷川明神社と改められていた。玉鉾とは、岩山の頂上の岩盤を踏み鳴らすと鼓のようにポンポンと響くところから名付けられたという。俗に「ポンポン山」とも呼ばれている。氷川明神となっているのは、氷川社の社家である西角井家に伝わる「武蔵国造系図」に、遠祖天穂日命の六代の五十根彦命、一名を高負比古命とあり、当社との関わりが認められるからであろう。祭神は、味鉅高彦根命と大巳貴命、もしくは素盞嗚命となっている。いずれも出雲系の神であるが、素盞嗚命との混乱は牛頭天王信仰の流行が当地に入ってきたことによると思われ、当社で天王様の祭りが夏祭りとして行われていた。(「埼玉の神社」より)
吉見町・埼玉県掲示による髙負彦根神社の由緒
ポンポン山(高負彦根神社)
縁起式内社で昔は玉鉾氷川明神とも称した。
祭神は、味鉏高彦根尊、大己貴尊ともされるが素戔嗚尊ともいわれる。
社記によれば、和銅三年(七一〇年)創建と伝えられる古社で、宝亀三年(七七二年)十二月じゅうくにちの太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル天平勝宝七年(七五五年)十一月二日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山とも言う。巨岩の直下二十メートルの平地は古代荒川の流路であった。吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。(吉見町・埼玉県掲示より)
境内の獅子封じ塚について
昔、高生郷(現在の田甲)には、獅子舞の古い行事がありました。
今から、数百年前ごろの旧暦六月の某日、悪疫退散のため、獅子舞を冠り、戸毎を訪問する行事が行われておりました。しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土神のお咎めではないかと恐れ、獅子舞を境内に埋没し、その上に柊(昭和十二年に大柊は、県指定文化財となるが、現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言われています。(境内掲示より)
髙負彦根神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)