出世稲荷神社|旧連雀町の鎮守
出世稲荷神社の概要
出世稲荷神社は、千代田区神田須田町にある稲荷神社です。出世稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、伏見稲荷大社を勧請、旧連雀町内(須田町1-10・12)に創建したといいます。延享年間(1744-1748)の火災により柳森神社に合祀されたものの、明治7年当地に再建、関東大震災には、社殿再建のために神璽が遷奉されていたため災禍を免れ、戦災も免れたことから火伏をはじめとしたご利益があるとして信仰を集めているといいます。
社号 | 出世稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 9月15日前後 |
住所 | 千代田区神田須田町1-11 |
備考 | 柳森神社摂社 |
出世稲荷神社の由緒
出世稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、伏見稲荷大社を勧請、旧連雀町内(須田町1-10・12)に創建したといいます。延享年間(1744-1748)の火災により柳森神社に合祀されたものの、明治7年当地に再建、関東大震災には、社殿再建のために神璽が遷奉されていたため災禍を免れ、戦災も免れたことから火伏をはじめとしたご利益があるとして信仰を集めているといいます。
境内掲示による出世稲荷神社の由緒
山城国稲荷山の分魂・柳森神社攝社にして連雀街創立の頃より町内鎮守神と祭祀す。青果商う者、出征奉賽の為に建立すとも云う。其後延享年間火災の折、柳森神社に合掌祭祀し例年二月上の午日、町内に迎え祭典執行居りしも明治七年五月町内地続き武家地新開成るに及び連雀街十八番地に信者奉願造営遷座せるものなり。明治八年東京府境内見捨地とす。
大正十二年五月社殿改築の議起り、柳森神社へ神璽を遷し、九月竣工の運びなりしも、九月一日突如起りし関東大震災の為、新宮・町家共に灰燼に帰す。幸いにも神事は柳森神璽と共に偶然にも神田川いなり河岸に繋留ありし稲荷丸という船(多町青果市場納入便船)に遷奉し猛火を潜り河口を脱出難を避けた。
現社殿は昭和三年遷座建立せしものにて、年々九月十五日町内及び信者一統相寄り柳森神社柳原宮司のもと祭祀司る。
其後町内戦火にも免れ、火災・災厄一つとしてなく遠地よりの参拝も多く、火防・商売繁栄学業成就の神として多大の崇敬を集めている。(境内掲示より)
「千代田の稲荷」による出世稲荷神社の由緒
出世稲荷神社は、伝承によれば、伏見稲荷大社より分霊し、旧連雀町内(一六五七年の明暦大火以降は現・須田町一丁目一〇・一二あたり)に創建されたと伝えられる。しかし延享年間(一七四四~四八)の火災の折に近隣の柳森神社に一時合祀され、明治を迎えることとなった。維新後、近隣の武家屋敷が町屋となったことから連雀町は町域を広げ、明治七年(一八七四)、連雀町一八番地(当社現地)に新たに社殿を建立した。また、関東大震災で社殿は全焼したが、折しも大正一二年五月より社殿改築のため、神璽は別地に遷奉しており被害を免れる。現社殿は昭和三年に建立したもので、戦災も免れたことから、火伏のほか、商売繁栄、学業成就の利益があるとして、地域の守護神のみならず遠地からの参拝もあるという。現在は須田町北部町会内の住民が中心となって、維持管理にあたっている。
祭礼の参列者は町会関係者のほか、元住民で現在は区外へ転居した人、また町内に会社や事務所を構える人々で二〇人前後になる。また同町内に所在する延寿稲荷神社と同日に祭礼を行なっているので、当社の神事が終了すると、参列者は延寿稲荷神社へ移動する。
関係者によれば、市場が近くにあったころは、市場関係者(市場内で働く人や市場で使用する木箱を作る職人など)が町内にも多く住んでいて、彼らの信仰は篤かったと回顧している。(「千代田の稲荷」より)
出世稲荷神社の周辺図
参考資料
- 「千代田の稲荷」