寶鏡山清養院。宮沢賢治下宿の地
清養院の概要
曹洞宗寺院の清養院は、寶鏡山と号します。清養院は東顕寺第二世天襄舜賀大和尚が盛岡市上田門前町に開創、長享元年(1487)に当地へ移転したと伝えられます。また宮沢賢治が盛岡中学校(現盛岡一高)在学中、当寺に下宿していたといいます。
山号 | 寶鏡山 |
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院号 | 清養院 |
寺号 | - |
住所 | 盛岡市名須川7-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
清養院の縁起
清養院は東顕寺第二世天襄舜賀大和尚が盛岡市上田門前町に開創、長享元年(1487)に当地へ移転したと伝えられます。
「盛岡の寺院」による清養院の縁起
寺院沿革
当院は寶鏡山と号し、盛岡市名須川町にある曹洞宗東顕寺の末寺で、東顕寺第二世天襄舜賀大和尚が開創された寺である。御開山さまは盛岡市上田門前町で、のち長亨元年(一四八七)に現在の地に移転建立したといわれているが、詳細については不詳である。盛岡市公民館に展示された南部家所蔵寺院配置図に"清陽院"と記載されていたが、清養院の"養"が何故"陽"になっていたかは不明であり、ただ盛岡に"セイヨウイン"が二ヶ寺あったと伝えられていることも事実のようである。
御開山天襄舜賀大和尚が亡くなられたのは、文明三年(一四七一)二月二日と記されている(本寺東顕寺誌)。清養院は室町時代に聞かれ、約五百年余を経て今日にいたっている。(「盛岡の寺院」より)
清養院所蔵の文化財
- 木造釈迦如来坐像
木造釈迦如来坐像
本像は檜材寄木造りの像容に優れた漆箔像である。右膝を前に結跏趺坐し、地髪は螺髪、肉髻が盛り上がり、肉髻珠・白毫玉を嵌入する。眼は玉眼で、環耳は外側に張り、頬はやや豊頬で端麗な相好となっている。三道はやや肉厚、左手上の定印(吉祥坐の印相)を結び、衲衣の襞(衣褶)は江戸期特有の連波文で、裾は前に張り出している。
背面には、「天和二壬戌年(一六八二)九月一日」の記銘があり、制作年が推定できるものとして、また典型的な江戸中期の仏像として貴重である。
なお、台座は内側の墨書により、文化十四年(一八一七)江戸の仏師惣蔵が製作したものとわかる。脇侍の文殊・普賢の両菩薩は文政三年(一八二〇)に用意されたものである。
総高一四五・〇センチ、像高五〇・〇センチ、膝張四一・五センチ。(盛岡市教育委員会掲示より)
宮沢賢治ゆかりの地(清養院)
宮沢賢治(明治29年(1896)~昭和8年(1933))は、岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)で生まれた。盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。
このあたりの北山、名須川町地区は、藩政時代からの寺町で、多くの寺院が並んでおり、賢治とのかかわりも深い。明治42年(1909)盛岡中学校に入学、自彊寮に寄宿。4年生の3学期、寄宿舎の舎監排斥運動で寮を追われ、卒業までの1年間お寺に下宿した。
最初にお世話になったのが清養院(曹洞宗)①、そして5月には徳玄寺(浄土真宗)②に移った。-たくさんの文学書、宗教書を読み夜には本堂の縁側で月光をあびながら深い思いにふけった。-
五百羅漢のある報恩寺(曹洞宗)③では、たびたび参禅し仏教を学んでいった。大正3年(1914)3月、盛岡中学校を卒業。盛岡高等農林学校への進学を許され、翌年1月から3か月ほど教浄寺(時宗)④に下宿、受験勉強に打ち込み、盛岡高等農林学校に首席入学。
願教寺(浄土真宗)⑤では、島地大等の法話を聴き感動する。
賢治の生涯をつらぬく信仰の本源となる。(盛岡市・盛岡観光協会掲示より)
清養院の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)