恵日山金剛寺。波多野中務大輔忠経創建、丸ノ内線開通に伴い移転
金剛寺の概要
曹洞宗寺院の金剛寺は、恵日山と号します。金剛寺は、波多野中務大輔忠経が源実朝の為に孤舟和尚を開山に迎えて建長2年(1250)相州波多野に創建、天目普應國師が開山したといいます。その後江戸下野入道心佛が江戸小日向郷金杉村へ移転したといいます。文明年中(1469-1486)に太田道灌が再興、永正6年(1509)駒込吉祥寺洪州和尚が吉祥寺末としたといいます。丸ノ内線開通に伴い、当地へ移転しました。
山号 | 恵日山 |
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院号 | - |
寺号 | 金剛寺 |
住所 | 中野区上高田4-9-8 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金剛寺の縁起
金剛寺は、波多野中務大輔忠経が源実朝の為に孤舟和尚を開山に迎えて建長2年(1250)相州波多野に創建、天目普應國師が開山したといいます。その後江戸下野入道心佛が江戸小日向郷金杉村へ移転したといいます。文明年中(1469-1486)に太田道灌が再興、永正6年(1509)駒込吉祥寺洪州和尚が吉祥寺末としたといいます。丸ノ内線開通に伴い、当地へ移転しました。
「小石川區史」による金剛寺の縁起
金剛寺
惠日山金剛寺。駒込吉祥寺末。本尊釋迦牟尼佛。當寺は東京に於ける古刹の一つで、寺傳に依ればその開創は、建長二年波多野中務太輔が将軍源實朝の爲めに、相州波多野の荘田原村へ一寺を建立したのに基づく。當時は臨済宗で、開山は天目普應國師であつたが、のち江戸下野入道心佛が現在の地に移し、その後文明年中に太田道灌が之を再興したといふ。永正六年曹洞宗に改め、吉祥寺末となり、一時大いに榮えたが、その後度々祝融の災に會ひ、寺門が漸次荒廢に傾いた。徳川氏入國後、吉祥寺第五世用山元照和尚(中興開山で、慶長三年八月廿七日寂)が入つて之を再興したが、舊時の盛観は見られなかつたらしく、寛文年中の『江戸名所記』にも『これ太田の道灌の建立として、用山大和尚の開基たり。此故に道灌の木像あり、そのかみは寺院も多く境内も廣くして、僧録、首座、請客、侍者、沙彌、喝食、維那、納所、行者、火番なんどもありて、祈禱、祝聖、開浴、淋汗のしきしきの務めをこたらず、いはんや堂塔もきらびやかに、塔頭もにぎはひけるを、今はかすかなるすまひにて、人気もいと稀なり。座禪公案のためにはたよりあしからず、佛日祖風を仰ぐにはつとめてよろし。本堂は茅ぶきにして、径行の道もなし。門前は水道なり、門のうち兩方に寺家の寮あり。鐘はありながら鐘楼はなし。只二柱に二龍頭をかけたり』とある。然しその後漸次榮えたと見えて、『江戸名所圖會』所載の規模は頗る堂々たるものである。文政時代には境内六千四百四十八坪あり、内門前町屋を有し、小日向屈指の大寺であつた。猶ほ當寺には永正十年の建立だと云ふ鎌倉右将軍實朝公の碑があつたが、最近府下上高田の金剛寺墓域へ移されて今はない。其碑文の内容は既に述べた通り信ずるに足らぬものである。又當寺には現に源實朝の位牌並に太田道灌の木像及び位牌を安置してゐる。木像の製作年代は不明であるが、位牌は背面の銘記に依つて寛永五年に龍悦和尚の造つたものであることが知られる。銘文は永正十年在銘碑と頗る類似し、只それを要約せるものとさへ思はれる。
兎に角當寺は小日向屈指の名刹として、室町時代末より江戸時代を通じて一般に周知されてゐたが、禁煙は寺門の勢ひ餘り振はず、詣づる人も甚だ稀で、行客をして轉た懐古の情を偲ばしめる。
猶ほ小日向の地には芳林院といふ古刹があつて、古来當寺と混同せられて来たが、其事は既に述べたから略することにする。(「小石川區史」より)
東京名所図会による金剛寺の縁起
金剛寺
金剛寺は。小石川金富町十八番地に在り。恵日山と號す。曹洞宗にして吉祥寺の末なり。
新編江戸志に寺傳を載せて云。鎌倉源頼朝公。尾州愛智郡山崎の陣所に於て。天竺佛地蔵尊を得て。源家一統の祈誓をなし。天下平定の後。鎌倉円覚寺後に安置す。右大臣實朝、波多野中務大輔忠経に命じて寺を相州波多野庄田原村へ定立して。孤舟和尚を開山とす。其後江戸下野入道必佛。寺を武州江戸小日向郷金杉村に移す。文明年中太田持資再興。永正六己巳年駒込吉祥寺洪州和尚の時吉祥寺末寺とす。中興開山天目中峰普應國師なり。今の開山は吉祥寺五世用山元照禅師なりと云々。
東鑑治承六年金剛寺住侶訴の事を記せり。今も當寺に實朝公石碑あり。太田道灌位牌あり。地蔵堂山の上に在り。
因て實朝追悼の墓碑を検せしに。江戸志に載る寺傳に訛りあるを發見せり。他なし。寺傳には實朝の命じて建たるよしをしるしたれども。之を墓碑に徴すれば。波多野忠経が菩提の為に建たること是なり。左に其の碑文を録して證とす。
右面。恵日山金剛禅寺者。始波多野中務忠経為鎌倉右将軍實朝公菩提。建長二庚戌年建之相州波多野庄田原村。江戸下野入道心佛移寺於武州江戸庄小日向郷金杉村。亦其後文明年中。當寺承久元卯年。
正面。金剛寺殿鎌倉右府将軍實朝公大禅門。
左面。開基正月廿七日。太田左衛門入道静勝軒春苑道灌重興為。昔日者臨済宗也。其時之開山普應國師。二代巨舟和尚。中興叔悦禅師。永正六己巳年改曹洞宗者也。維持永正十癸酉年七月十日金剛現住比丘實山翁記之。
江戸名所図会に云。白石先生云。梅花無盡蔵。文明十七年乙巳東遊の詩註に。芳林院に於て李太白の墨蹟を看る。同く其下に芳林院今金剛寺と號すとあり。
案るに。北條家の分限帳に。島津孫四郎北品川小石川及び金曾木内法林院金剛寺分等の地を領する由を記して。法林院に作る。又小田原實記に。大永四年正月十三日北條氏綱。上杉修理太夫朝興とたたかひ勝て。江戸の城にうつる條下に。其頃當所芳林院の孤舟和尚来りて。萬里居士の江亭記を捧ると。又孤舟和尚其後は金剛院に住すと記せり。之に因て考れば金剛寺と芳林院は別なることしるべし。
當寺往古は。境内廣く寺院魏々として。首座。主閣、侍者、沙彌、喝食、維那、納所、行者火番などありて。祈祷上堂参禅の式勤め怠らずして堂塔も壮麗なりしとなり。(東京名所図会より)
金剛寺の周辺図