畔吉諏訪神社。上尾市畔吉の神社
畔吉諏訪神社の概要
畔吉諏訪神社は、上尾市畔吉にある神社です。畔吉諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に土着・畔吉村の名主を勤めていた井原家が、石戸領の総鎮守諏訪神社を、井原家の氏神として勧請したといいます。寛保元年(1741)に時の当主井原弥市が徳星寺に寄附、明治40年に字中の村社氷川神社をはじめ地内の九社を合祀し、村社に列格したといいます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、琴平社、水神社、水神社、八幡社4基 |
祭日 | 10月中旬の日曜日 |
住所 | 上尾市畔吉835 |
備考 | - |
畔吉諏訪神社の由緒
畔吉諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に土着・畔吉村の名主を勤めていた井原家が、石戸領の総鎮守諏訪神社を、井原家の氏神として勧請したといいます。寛保元年(1741)に時の当主井原弥市が徳星寺に寄附、明治40年に字中の村社氷川神社をはじめ地内の九社を合祀し、村社に列格したといいます。
新編武蔵風土記稿による畔吉諏訪神社の由緒
(畔吉村)
氷川社
長二尺、圓径三寸許なるなて角の青石を神體とす、是雷斧雷槌の類なるべし、徳星寺の持、村の鎮守なり。
諏訪社
持同じ(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による畔吉諏訪神社の由緒
平社、面積622坪村の東方に在り建御名方命を祭る、往時村民井原氏の氏神であったが、寛保元年(1741)井原弥市の時徳星寺に附した。御神体、丸の青石、長さ2尺径3寸外御幣の記録あり。明治40年4月大字地内の諸社を合祀した。(「上尾の神社・寺院」より)
「埼玉の神社」による畔吉諏訪神社の由緒
諏訪神社<上尾市畔吉八三五(畔吉字本村)>
畔吉は、古くは畦牛・阿世吉とも称した。康暦二年(一三八〇)の「鎌倉公方足利氏満御教書」(円覚寺文書)に「足立郡畦牛郷内」とあり、当地の開発が中世までさかのぼることをうかがわせる。
創建年代は明らかでないが、口碑によれば、当社は元々、江戸期に名主を務めた井原家の氏神であったという。当村が属した石戸領の惣鎮守は川田谷村(桶川市川田谷)の諏訪神社であることから、その分霊を勧請したものとも考えられる。『風土記稿』によれば、井原家の先祖は井原土佐守政家と名乗り、岩槻城主太田氏房に仕え、天正十八年(一五九〇)の落城に伴い、当地に逃れ土着したというが、徳星寺蔵の文書に落城前に居住していたとする記録もあり、土着の時期は判然としない。『郡村誌』によれば、当社は、寛保元年(一七四一)に時の当主井原弥市により徳星寺に附され、以来、徳星寺が別当となった徳星寺は、弘仁年間(八一〇-八二四)に弘法大師により開基されたとする古刹で、永禄六年(一五六三)に宗旨を真言宗から天台宗に改めた。
神仏分離後、当社は無格社となり、明治十五年八月二十六日に本殿が再建された。明治二十二年に当村は大石村の大字となり、明治四十年四月二十五日に字中の村社氷川神社をはじめ同大字内の九社を合祀し、村社に昇格した。(「埼玉の神社」より)
諏訪神社々殿修復完成記念碑による畔吉諏訪神社の由緒
諏訪神社の創建は定かでないが、建御名方命を祭神として、往時村民井原家の氏神であったが、寛保元年(一七四一)井原弥市氏の時、徳星寺に附された。本殿は明治三年(明治十五年再建)の造営依頼幾多の時代の変遷を経て地域の総守護神として広く崇敬されている。その後、明治四十年四月大字畔吉地内の八社を合祀し今日に到った。
このたび社殿の老朽化が進み遍く修復の機運が高まり、畔吉四区々民の浄財を中心として、平成の大業と位置付け、ここに諏訪神社社殿修復奉賛会を発足して事業の達成を成就し完結す。(諏訪神社々殿修復完成記念碑より)
畔吉諏訪神社所蔵の文化財
- 畔吉諏訪神社大山石灯籠(上尾市指定有形文化財)
- 畔吉ささら獅子舞(上尾市指定無形民俗文化財)
- 畔吉の万作踊り(上尾市指定無形民俗文化財)
畔吉諏訪神社大山石灯籠
上尾市やその周辺地域では、江戸時代から遠隔地の有名社寺を信仰する代参講が盛んに行われ。その中で特によく行われてきたものに大山講がある。大山講は、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社を信仰する講として結成され、古くは大山石尊大権現と呼ばれたことから石尊講とも呼ばれる。
大山山頂に大山阿夫利神社の本社があり、山開きの期間(七月二七日から八月一七日まで)のみ参拝登山ができるものとされてきた。大山灯籠は、それぞれの講の地元に、この山開きの期間に立てられるものであった。
上尾市内の大山灯籠の多くは、木製の組立て式である。山開きの時期になると、地元の神社や集会施設、道端などに立てていた。周囲に竹を4本立て、これに注連縄を巡らせ、毎晩灯明をともすものであった。
この大山石灯籠は、木製の灯籠ではなく石灯籠で常設されている。大山石灯籠は、市内では畔吉と領家の2か所にとどまる貴重な例である。この石灯籠でも、毎年七月下旬から1週間、大山灯籠行事を行っている。
石灯籠の背面には、元治元(1864)年の紀念銘があり、正面には「大山石尊大権現」と大きく刻まれている。このほか、造立主体や製作石工も刻銘から明らかであり、上尾市域における大山信仰の状況を知るうえで貴重な文化財といえる。(上尾市教育委員会掲示より)
畔吉ささら獅子舞
「畔吉ささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3人で舞う、三匹獅子と呼ばれる系統の風流系民俗芸能である。戦国時代に岩付(現在のさいたま市岩槻区)の殿様が見に来た獅子だったと伝わっている。
獅子舞は、畔吉地区の鎮守である諏訪神社の例祭で悪疫退散・五穀豊穣などを願って奉納される。かつては八月二七日が例祭日であったが、現在は一〇月中旬の日曜日となっている。例祭では、諏訪神社のほか徳星寺でも1回奉納される。
舞手の構成は、牝獅子と中獅子、王獅子の三人一組である。舞は、笛に合わせて進行し、舞手の獅子は腰に着けた太鼓を叩きながら舞い、花笠をかぶる岡崎が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
演目は、十二切といわれる一曲式が基本で、2時間弱の舞である。このほか、短縮版の三切、七切という演目もある。
舞の中盤では歌が入り、後半には牝獅子隠しとなる。牝獅子隠しは、牝獅子が花笠の間に入って隠され、これを中獅子と王獅子が探し、牝獅子の奪い合いで争うが、和解するという内容である。(上尾市教育委員会掲示より)
畔吉の万作踊り
万作とは、万作踊りと呼ばれる舞踊と、段物・芝居などといった演劇のことで、埼玉県の稲作地帯の代表的民俗芸能である。農民の豊年満作の娯楽芸能として、江戸の冠木などの演劇の影響を受けながら発達してきた。起源は明確ではないが、江戸時代末期に始められたものと考えられ、大正時代から昭和初期にかけて全盛を誇っていた。上尾市域は、県内でも特に万作が盛んに行われていた地域だった。
「畔吉の万作踊り」は、大正時代には既に行われており、昭和五五(1980)年頃からは、畔吉の鎮守である諏訪神社の春季例祭(四月の第1日曜日)に奉納されている。演目は、下妻踊り・手拭い踊り・銭輪踊り・伊勢音頭・口説きの5種類である。このうち基本となる演目は下妻踊りであり、採りものを持たずに踊る。銭輪踊りは、踊りの三番叟と呼ばれ、最初に踊るのはこの演目である。下妻踊り、手拭い踊り、銭輪踊りは、ほぼ同じ系統の歌で踊るが、伊勢音頭は、全国的に広く分布する伊勢音頭の歌で踊る。(上尾市教育委員会掲示より)
畔吉諏訪神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)