遍照院。上尾市上町にある真言宗智山派寺院

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日乗山遍照院。江戸時代中期には談林所

遍照院の概要

真言宗智山派寺院の遍照院は、日乗山秀善寺と号します。遍照院は、畔吉村(現在の上尾市大字畔吉)東高野山徳星寺住職の弟阿順法印(応永9年1402年没)が遍照院へ転住して応永元年(1394)に開山、現光勝院の地にあったといいます。江戸期に入り上尾が宿場町となり当地へ移転、慶安元年(1648)徳川家光より寺領20石の御朱印状を拝領、江戸時代中期には談林所に昇格したといいます。

遍照院
遍照院の概要
山号 日乗山
院号 遍照院
寺号 秀善寺
本尊 不動明王像
住所 上尾市上町1-6-6
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



遍照院の縁起

遍照院は、畔吉村(現在の上尾市大字畔吉)東高野山徳星寺住職の弟阿順法印(応永9年1402年没)が遍照院へ転住して応永元年(1394)に開山、現光勝院の地にあったといいます。江戸期に入り上尾が宿場町となり当地へ移転、慶安元年(1648)徳川家光より寺領20石の御朱印状を拝領、江戸時代中期には談林所に昇格したといいます。

新編武蔵風土記稿による遍照院の縁起

(上尾村)遍照院
新義眞言宗、御室仁和寺末、日乗山秀善寺と號す、慶安年中二十石の御朱印を賜ふ、當寺往昔は今の光勝院の地にありしを、當所に宿驛をたてられしとき、この所に移せりと云、其年代は傳へざれど、光勝院は天正年中開基せりと云へば、當所へ移せしはそれよりまへのことなるべし、又いづれの頃か丙丁の災にかかり、記録を失ひたれば寺傳詳ならず、開山阿順法印應永九年二月廿八日寂す、本尊不動興教大師の作にて、秘佛なればみることを許さず、境内に秀賢阿闍梨嘉吉元年十月二廿日とえりたる碑、これ當山四世の住僧なりと云、此外建治・應安・永享・文明等の古碑二三基これあり。
鐘楼。天明元年鑄造の鐘をかく。
辨天社。(新編武蔵風土記稿より)

「上尾の神社・寺院」による遍照院の縁起

小川家文書によれば、弘法大師の草創、秀善律師の受領(鎌倉時代)を伝え、阿順を第1世とする。阿順は応永9年(1402)に没しているので、これ以前の開基であろう。江戸初期には近在の倉田明星院などと共にこの地域を代表する新義真言宗である。正徳3年(1713)には淡林に昇格している。朱印20石。(「上尾の神社・寺院」より)

境内石碑による遍照院の縁起

開山
遍照院は、室町時代の応永元年(一三九四)、畔吉村(現在の上尾市大字畔吉)東高野山徳星寺住職の弟阿順法印が遍照院へ転住して開山した。開山当時は、新義真言宗(真言宗の一派で平安後期高野山を離れ根来山で教えを広めた僧覚鑁を祖とし、奈良長谷寺と京都智積院を両本山とする)御室仁和寺派の直末寺で、日乗山秀善寺と号した。
開山した阿順法印は、応永九年」(一四〇二)二月二十八日に寂した。
御本尊
大聖不動明王
現在地への移転
開山当時は、本村(現在の本町六-四番地)の光勝院の所にあったが、慶長七年(一六〇二)中山道の宿駅制度が制定され、上尾に宿駅が出来た時に現在の位置に移転した。
寺領
本寺は、三代将軍家光公より慶安元年(一六四八)八月十七日に、初めて二十石の朱印状を頂戴した。
田舎談林所
直末寺である田舎本寺は、所在地に於いて末寺に法流を伝授して弟子を養成することが出来た。遍照院が談林所として弟子の養成を公認されたのは正徳三年(一七一三)以降で、常設談林所に昇格し本堂が狭くなったので第二十世賢典僧正は本堂を再建した。それは遍照院談林願連判状で推測される。これは遍照院が触頭江戸四箇寺へ、談林所への昇格を出願した際に作成されたものである。(境内石碑より)


遍照院所蔵の文化財

  • 山崎武平治碩茂の墓(市指定文化財)

遍照院の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)