谷津観音堂。旧福壽山皆應寺、足立坂東観音霊場
谷津観音堂の概要
真言宗智山派寺院の谷津観音堂は、上尾市谷津にある庵室です。谷津観音堂の創建年代等は不詳ながら、後花園天皇の時代(約五五〇年前)に創建した福壽山皆應寺の堂宇だったといいます。明治5年皆應寺は廃寺となったのの、観音堂は地元の方達により残されたといいます。足立坂東観音霊場26番です。
山号 | 福壽山 |
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院号 | - |
寺号 | 皆應寺 |
住所 | 上尾市谷津2-3-23 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
谷津観音堂の縁起
谷津観音堂の創建年代等は不詳ながら、後花園天皇の時代(約五五〇年前)に創建した福壽山皆應寺の堂宇だったといいます。明治5年皆應寺は廃寺となったのの、観音堂は地元の方達により残されたといいます。
新編武蔵風土記稿による谷津観音堂の縁起
(谷津村)皆應寺
新義真言宗、柏座村日乗院末、福壽山と號す、本尊阿彌陀を安ず。
観音堂。十一面観音を安ず、足立郡三十三番札所の内にて、第二十六番なり。(新編武蔵風土記稿より)
「上尾の神社・寺院」による谷津観音堂の縁起
該当記載なし(「上尾の神社・寺院」より)
境内石碑による谷津観音堂の縁起
観音堂新築記念碑
日乗院第二十四世大僧正正悰(りっしんべんに宗)隆代
碑文
観音堂は、むかし皆應寺という真言宗のお寺に属するお堂であり、その草創は後花園天皇の時代(約五五〇年前)にさかのぼるといわれております。
皆應寺は足立板東三十三ヶ所札所第二十六番でありましたが、明治五年廃寺となり、從って観音堂も廃堂となりました。その後観音様を慕う地元の人々の手によって復興され、安産・子育ての観音様としてあまねくご慈悲の光を與え下されて参りました。
ご本尊は二尺一寸一分の木彫立像の十一面観世音菩薩で、特徴は板碑形式であるため頭部の十一面はすべて前方を向いていることであります。また、御本尊は秘仏とされ十二年毎の午歳ご開帳の折、一般に公開される慣わしとなっております。
この度、お堂の老朽化のため雨漏りの個所も多いことから、町内の役員・有志相計りその新築を呼び掛けましたところ、町内は勿論町内他市町からも大きなご賛同ご協力を賜り、昭和五十八年八月起工、昭和五十九年一月お水屋ともとも落慶に至り、観音様のご安泰を期し奉ることが出来ました。
茲に観音堂新築記念碑を建立して、感謝の意を表明するものであります。
昭和五十九年一月吉日 観音堂建設委員会 撰文(境内石碑より)
谷津観音堂所蔵の文化財
- 木彫十一面観音立像(上尾市指定有形文化財)
- 下遺跡(上尾市指定有形文化財)
木彫十一面観音立像
谷津観音堂の本尊である木彫十一面観音立像は、12年に1度、午の年に御開帳される秘仏である。像高は72.4cm、一木造で、木材の風合いを生かした仕上げとなっている。頭上には中央に仏面、その周辺にぶどうの房状に変化面10面を置く。左手に水瓶を持ち、岩座上に立っている。
本体の構造は珍しく、薄い板状の堅木をレリーフ状に掘り出し、これに杉材の後頭部・背面部を付け加えて一体の彫像としている。この付け加えた部材の内側に、永享四(1432)年に修理した旨の墨書がある。本体は、ふくよかで写実的な顔つきと、その衣服の様子から、鎌倉時代末期頃から現れ始める宋風観音像の一例とみなされ、製作年代は、南北朝時代(1336-92)までさかのぼると思われる。(上尾市教育委員会掲示より)
谷津観音堂の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)