広沢の池。農業用水として利用されていた貯水池
広沢の池の概要
広沢の池は、朝霞市栄町にある名所旧跡です。広沢の池は、崖上の台地に広がっていた広沢原の雑木林による地下水が、崖下の当地に湧き出て貯水されてできた池です。江戸期には当地の水を引き込み農業用水として利用されていました。
旧跡・名所名 | 広沢の池 |
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みどころ | 朝霞市指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 朝霞市栄町1-1-11 |
備考 | - |
広沢の池の縁起
広沢の池は、崖上の台地に広がっていた広沢原の雑木林による地下水が、崖下の当地に湧き出て貯水されてできた池です。江戸期には当地の水を引き込み農業用水として利用されていました。
朝霞市教育委員会掲示による広沢の池について
この池は台地の崖下からの湧き水によってできたもので、「新編武蔵風土記稿」によると、周辺の感慨用水として古くから利用されてきた貴重なものである。また、現在では市街地に残された遊水池として周辺の環境とともに貴重な景観を保っている。(朝霞市教育委員会掲示より)
朝霞市教育委員会掲示による広沢の池について
こ広沢の池の崖上には、かつて広沢原が広がっていました。台地上の雑木林を背に負い、それらの地下水が崖下に湧き出るところが、広沢の池や七ツ釜などの湧水池です。
明治8年当時の様子を伝える「武蔵国郡村誌」のなかに、「広沢観音の池村(岡村)の南方、東西十五間、南北二十間」と記されています。
また、江戸時代の文政年間に幕府によりまとめられた「新編武蔵風土記稿」には、「広沢の池、岡村にあり、此辺諸村の養水みなこの池中七ツ釜と云所より涌出す」とあり、広沢の池の水は、細く東に流れ出て七ツ釜の水と合流して越戸川となり、根岸台、新倉の水田の感慨用水として利用されていました。
また、同じく「新編武蔵風土記稿」によると、この近辺には沢が多く、特に広沢の池は広い沢だったため、広沢の池と言う名になったと伝えられていますが、これは言い伝えだけで証拠はなく、おそらくは、もともと広沢と言う地名があったところに池ということで「広沢の池」と言う名が付いたのであろうと記録されています。(朝霞市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による広沢の池について
(岡村)
廣澤池
村の南の方観音堂の下にあり、東西三十間、南北二十四五間、させる勝地にあらざれど、古跡なり、いつの頃にや有けん、此地にて農夫足をすゝがんとてひたしたるに、物ありて爪さきをくはへたるごとく覺ければ、訝りながら直に水中を探るに、古き鰐口なり、これ昔の観音堂の鰐口なるべしとて、そのまゝ東圓寺へ納めしとぞ、年號をも刻せしが、耳なれぬ年號なれば覺へず、古き物なるべしと土人いへり、此事東圓寺の住僧に尋ぬれど、いかがなりけん知ずと云へり、
七ツ釜
泉の名なり、廣澤池の側に水の湧出る處七ヵ所あり、故に七ツ釜と名く、此水を引き近郷の用水とせり、(新編武蔵風土記稿より)
広沢の池の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」