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東圓寺。朝霞市岡にある真言宗智山派寺院

東圓寺の概要

真言宗智山派寺院の東圓寺は、松光山と号します。創建年代は不詳ですが、古来より薬師堂とその別当寺が近隣にあったといい、その薬師堂が廃れたのを惜しんだ法印永慶が寛弘年間(985~1011)に再建し中興高祖となったといいます。太田道灌が当寺本尊薬師像を、城内鎮護として持ち去ったこともあったものの無事返還、徳川家康江戸入府後には、当地の代官となった甲斐荘喜右衛門が当寺を当地へ移転したといいます。当寺不動堂横には霊泉とされる不動の瀧があります。

東圓寺
東圓寺の概要
山号 松光山
院号 -
寺号 東圓寺
本尊 薬師如来像
住所 朝霞市岡2-8-92
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



東圓寺の縁起

東圓寺の創建年代は不詳ですが、古来より薬師堂とその別当寺が近隣にあったといい、その薬師堂が廃れたのを惜しんだ法印永慶が寛弘年間(985~1011)に再建し中興高祖となったといいます。太田道灌が当寺本尊薬師像を、城内鎮護として持ち去ったこともあったものの無事返還、徳川家康江戸入府後には、当地の代官となった甲斐荘喜右衛門が当寺を当地へ移転したといいます。

新編武蔵風土記稿による東圓寺の縁起

東圓寺
除地4町、境内5段余、村の北不動坂の南の台にあり。新義真言宗、石神井村三寶寺末山なり。古は薬王山と号せしが、今は松光山薬王院と号す。寺伝に云、当寺は古跡なれ共開基のこと傳はらず。往古は今の地より東の方不動坂の西に当り、十二間四方の薬師堂あり。左右に五ヶ所の別当寺を置き、輪番に勤めしが、後故ありて中絶す。寛弘年中に至り法印永慶と云僧、この薬師堂及び別当寺の永く廃亡せしことを悲しみ、力を盡して遂に其廃したるを興し、まづ一宇の精舎を造立せり。薬師堂は未だ造立に及ばずして、同き3年3月12日示寂す。是より永慶を中興高祖とす。さればかの薬師堂に安置せし薬師佛は、当寺の本尊となりたり。この後戦国の間は、住僧も或はたえ或は続き、長禄文明の頃は太田道灌此地を領し、当寺の側に城を築きしに(此城のこと他の書に所見なし。姑く寺伝に従ふ)彼入道天性三寶をあがめしにより、この薬師佛を迎へ取り城内の持佛堂に安置せしが、夢想の告により又をくり返してもとの如く本尊とすと云。年月を経御入国の後に至り、此地を甲斐荘喜右衛門に賜まりける。此人亦信心浅からず。おもへらく寺院は人境の遠きに如すと。やがて勝地をえらび慶長18年に今の地へ移し、又薬師佛燈明料として田地三町を寄附せり。此寺の衰へざつは此功徳によれりと云。後第十二世法印永繁は土岐氏にて、高家の土岐大膳大夫と所縁ありしかば、共に力を合せ堂宇を再造せしにより、永繁も又中興とす。この人は宝永4年4月16日寂すと云。第十五世法印栄融より今に至り、法流を傳へたれば、又栄融を法流開山とす。
本堂、10間に7間。本尊薬師如来、運慶作を安す。其由来は前に載する如くに「して、中興以来近郷の渇仰大方ならず、中古太田道灌城中へ迎へとりし比、或夜の夢に薬師の告あり 曰く、今入道我を崇信するはさる事なれど、我ここに在れば入道が身を守護する而巳、徧く衆生を済ふこと能はず。ただもとの如く東圓寺へ返し、本尊佛とすべし。さあらん時は御身を守護世人をも救わんと、道灌驚き速に送りかへし、再び当寺の本尊とせりといふ。
鐘楼、門を入り左にあり。鐘の裏に寛保元年十月と刻す。銘文事長くして考証によしなければ略せり。
門、東南に向本堂の正面にあり。大門1町余、両側に並木あり。
裏門、表門の並び向て右にあり。庫裡の前面に当る。
寶物。
両界種子曼陀羅二幅、弘法大師筆。
不動画像、智證大師筆。
十一面観音木像、弘法大師作。
歓喜天一体、天竺伝来と云。
佛舎利一龕。
三尊弥陀木像一龕。
五智絵像一体。
不動鋳像一体。
不動木像一体。
両大師木像二体。
霊薬、血の薬さましの薬とて妙薬あり。この薬方は当寺十世の住持暁院薬師の瑞夢を感得して、調合し始しといふ。
八幡社、境内にあり。
古碑二基、境内にあり。文永5年卯月11日、応永20年3月5日とある。何人の碑なることを知らず。此外にも古碑あれども、かけ損じたれば読得ず。
観音堂(広沢観音堂)、廣澤池の邊少しく高き処にあり。故に廣澤観音と云べきを、土人平澤観音と云は誤れり。廣澤観音なるべし。堂は3間四面、除地5段あり。昔は今の地より南の方なる山上にあり、堂も広大なりしが天正18年北条氏照が城山(この城は入間郡城村の内にあり)合戦の時、煙を上げんとてこの堂を焼しと云、(或は云別に大伽藍ありしを焼たりと)今は礎石のみ残れり、土俗に其地を堂山と宇す。今の堂は村内東圓寺持なり。三枝攝津守当所知行せし時、除地となりしより今に至りて然り。
古碑五基、境内にあり。正和2年6月8日、正和・元徳2年7月日、元徳4年3月17日、永享2年10月日、共に其姓氏等をのせず。
不動堂、不動坂の下にあり。四面森々として喬木茂りたる幽遼の地なり。堂2間半四面、前に石階十級あり、東圓寺のもち。
瀧、堂の右にあり。瀧つぼは3間四方の地を穿ち水をたたへ、是より流れ出るもの堂背の耕地へ引て用水を助く。東圓寺縁起に不動堂の前には丈余の瀧、岩を穿て常に衆生の垢穢を洗ふと云もの是なりと。(新編武蔵風土記稿より)

「朝霞市史」による東圓寺の縁起

岡地区・東圓寺
松光山薬王院東圓寺といい、宗旨は真言宗智山派で、本尊は運慶作と伝える薬師如来ならびに両大師である。近世においては石神井三寶寺の末寺であった。『風土記稿』によれば、すでに当時は山号を松光山としていたが、古くは薬王山としていたとある。また、開基は詳細不明としているが、沿革に関してはある程度の記載がある。それにしたがうと、そもそも不動坂の西には薬師堂があって、それを隣接五か所の別当寺が輪番で管掌していたが、何らかの理由で絶えてしまった。やがて、法印永慶という僧侶がその荒廃ぶりを見て嘆き、寛弘年中(一〇〇四~一二)になって再興に尽力したとある。その後、甲斐荘喜右衛門が当地の領主となった際、現在地への移転を受けた。これが慶長十八(一六一三)年のことだった。そして堂宇を再建立したのは土岐大膳太夫と縁のあった一二世法印永繁(宝永四年寂)で、今に繋がる法流の開山は一五世法印栄融にあたるともある。つまり第一の中興は法印永慶、第二の中興は法印永繁で、法流開山は法印栄融であるとしている。なお、ここでは、長禄・文明の頃(一四五七)に太田道灌がこの地を領有した際、寺近くに城を築き、薬師の威徳を崇めんと一時借り受けたところ、戻した方が無事幸いだと夢告げをみたという逸話も盛られている。この点にかかわることとしては、道灌に当薬師の深い信仰があったため、側室の眼病平癒に霊験があったという伝承もある。
加えて『風土記稿』には、霊薬として「血ノ薬サマシノ薬トテ妙薬アリ」とあり、これは一〇世暁印が薬師から夢告を受けて調合しはじめたものとある。これについては、婦人病に効果ありとする前触れとして、先の道灌伝説と重複した形で、かの道灌も信奉し、その即知るの眼病ならぬ血の道にも効力があったとするいい方も伝えられていたようである。ただし、この薬は今はなく、一般の周知もほとんどなくなっている。
その他、寺宝として、弘法大師筆とされる両界種子曼荼羅のほか、板碑・八幡神像などもある。(「朝霞市史」より)


東圓寺所蔵の文化財

  • 東圓寺の板石塔婆
  • 不動の瀧
  • 一夜塚供養塔

東圓寺の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「朝霞市史」



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