今宮神社。秩父市中町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

今宮神社。八大龍王を合祀して八大宮・八大権現社

今宮神社の概要

今宮神社は、秩父市中町にある神社です。今宮神社は、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っていたところに、大宝年間(701-704)に役小角が八大龍王を合祀、八大宮と称し、平安時代中期からは今宮坊が別当を務めていたといいます。徳川家康が関東に入国した天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領していました。明治初年の神仏分離により、今宮坊が復飾、秩父三十四ヶ所札所14番観音堂を分離し、社号を八大権現社から今宮神社と改めています。

今宮神社
今宮神社の概要
社号 今宮神社
祭神 伊邪奈岐大神、伊邪奈美大神、宮中八神、須佐之男命、八大龍王神、天満天神
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 秩父市中町16-10
備考 -



今宮神社の由緒

今宮神社は、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っていたところに、大宝年間(701-704)に役小角が八大龍王を合祀、八大宮と称し、平安時代中期からは今宮坊が別当を務めていたといいます。天文4年(1535)に京都今宮神社より素戔嗚尊を勧請、徳川家康が関東に入国した天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領していました。明治初年の神仏分離により、今宮坊が復飾、秩父三十四ヶ所札所14番観音堂を分離し、社号を八大権現社から今宮神社と改めています。戦後、旧社殿を黒谷の聖神社に寄進、役尊神祠(行者堂)を再建しています。

新編武蔵風土記稿による今宮神社の由緒

(大宮郷)八大権現社
中町の北うらにあり、所祭八座相殿、大宮賣神、神御産日神、玉漬産神、生産日神、足産日神・御食津神・事代主神、本地大日如来、木坐像長一尺三寸、例祭三月廿八日・八月廿八日なり、當宮社再建は文龜元年八月に成就して、號今宮八大権現、祭神は大宮賣神・建神籬社號今宮、其勧請八座委儀如大内御巫祭神、天正十九年十石の御朱印を附せらる、社内に東照宮御像を安置し奉る、木の御坐像束帶にて、御長一尺八分、
別當今宮坊
長岳山正覺院金剛寺と號す、本山修験、聖護院直末なり、開山長岳永觀二年四月十五日寂す
(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による今宮神社の由緒

今宮神社は、その前身を長岳山正覚院金剛寺(一〇三八)大宮山満光寺(九八四)といいました。この両寺創立以前からこの地に、伊邪奈岐大神、伊邪奈美大神が祀られていました。大宝年間(七〇一~七〇四)には、役行者(えんのぎょうじゃ)がこの地に、飛来して八王龍王を合祀し、八大社と呼ばれていました。毎年四月四日の秩父神社のお田植祭は、今宮神社の水幣(みずぬさ=竜神池の水)を以て行われ、秋の収穫の喜びが十二月三日の秩父夜祭りを盛りあげるといわれています。
奈良時代には宮中八神(大宮売神、高産日神、神産日神、生産日神、足産日神、事代主神、玉積産日神、御食津神)が祀られ、降って大日如来が習合され、八大権現社と観音堂が創られました。天文四年(一五三五)には当地に疫病が流行したため、京都今宮神社より須佐之男命(すさのとの命=健康神・樹木神)を勧請して今宮神社を創建しました。
永禄十二年(一五六九)には徳川幕府より御朱印地十石、除地七石を賜わり、組下四十九寺を結集して秩父霊地の発展に務め、元禄十四年(一七〇一)長生院神門寺(現十八番札所)と共にまっさきに「江戸開帳」を行って、江戸-秩父間の交通路を拡き、秩父三十四札所の紹介と発展に貢献したと伝えられています。
明治維新時には、神仏分離令により、今宮坊は今宮神社と今宮観音堂(現十四番)に分けられ、更に昭和二十七年には児童館建設のため、旧社殿は黒谷の聖神社に寄進され、境内地も境内建物も縮小のやむなきに至りました。しかし御祭神をはじめ、御神体、御朱印、社寶、古地図、古文書、歴代の別当、宮司の墓所、それに由緒とその精神は当神社に継承されて今日に至っています。
御神意と時代の要請に則り、昭和二十年代より凡そ五十年間、神域を児童公園として開放、秩父市と協力して地域住民の心身の健康を祈って、福祉事業に専念いたしました。
ここに御神意の大成成就を御神前に報告し、神域を本来の姿に復したく、長い由緒を踏まえ、新らたな決意を以て当神社の歩みを始めました。
平成五年四月
今宮神社宮司(今宮坊二十世)塩谷太刀雄敬白(境内掲示より)

「埼玉の神社」による今宮神社の由緒

今宮神社<秩父市中町一五-一>
当社は秩父市の市街のほぼ中央に位置する中町に鎮座する。境内には県の天然記念物である”家康駒つなぎ欅” の巨木を中心に樹木が茂り、市民の憩いの場となっている。
当社は、古来、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っていたところに、大宝年中、役小角が、悪獣毒蛇から作物を守る八大竜王を合祀し、八大宮と称したという。下って天文三年諸国に悪病が流行した時、これを防ぐために、京都の今宮神社から素戔嗚尊が分祀され、社号を今宮神社と改める。永禄年中、甲斐武田の軍勢の兵火により社殿を焼失し、以降仮殿であったが、天正一九年に至って徳川幕府から朱印十石、除地七石を安堵され、寛永七年に社殿を再興した。『風土記稿』には、今宮八大権現社と記され、大宮賣神・神御産日神・高御産日神・玉漬産日神・生産日神・足産日神・御食津神・事代主神の八座相殿とあり、本地を大日如来と載せており、更に別当について「別当今宮坊長岳山正覚院金剛寺と号す、本山修験、聖護院直末なり、開山長岳永観二年四月十五日寂す」とある。
今宮坊は、平安中期の開山であり、近世には札所十四番の別当坊をも兼ねていた。
祀職は明治初年の神仏分離により、今宮坊が復飾して塩谷儒と名乗って神職となり、以来三代同家により奉仕し、現在太刀雄が務める。(「埼玉の神社」より)


役尊神祠(行者堂)再建にあたって

社記によれば、当社の前身は長岳山金剛寺、大宮山満光寺といい、ここに古来より武甲山の伏流水が湧き出る池があり、大宝年間(七〇一-四)役行者によって「八大龍王」が祀られて八大宮と称しました。役行者は舒明六年(六三四)葛城山の麓、茅原の里(現奈良県御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘渡都岐の間に生まれ、仙道、道教、古神道、仏教を学びました。しかしこれに満足せず「人間完成の探求と実践こそ神仏の境地到達の道であり、国家平安、万民幸福の根本である」と悟り、葛城山、金峰山へ入り難行苦行され、遂に法起、龍樹菩薩から乱れた世を救う秘法を授かりました。当時、人心は荒れ、凡教も頽廃してまっせの様相であることを嘆いた役行者は、悪魔(悪病や災厄、人間の欲望や煩悩)を降伏させることのできる御本尊を求めて更に修行し、金峰山で忿怒の相の金剛蔵王権現を祈り出して、吉野の金峰山山下の蔵王堂にまつりました。
羽黒、立山、浅間山等を開き、道場を建てること二百余ヵ所、厳しい自然の中に御仏の教えを求めて、強固な精神力と高邁な人格を身につけられた姿は、何人をも魅了してやまなかったと伝えられています。いつも弱者の側に立ち、治水工事、病気治療、鉱山開発、情報収集などを指導し「神か仏か、仙人か」と人々から仰がれました。一説に、壬申の乱(六七二)では、天武天皇を勝利に導き、後天皇より重く用いられました。この前後、今宮神社、武甲山、三峰、慈光寺に飛来し、当処に「八大龍王」を祀り「秩父霊場発祥の地」といたしました。凡そ八百年後の天文五年(一五三六)秩父札所が三十四ヶ寺整えられました。その後「江戸出開帳」も成功し、巡礼路も拓かれて、秩父は日本有数の霊場に発展して、役行者は秩父を開拓した恩人として幕末まで人々から尊敬されました。
文武三年(六九九)弟子の韓国連広足に図られて、無実の罪により伊豆大島に流されましたが、再び文武天皇に迎えられ、「国人の心の親」となられ、寛政十一年(一七九九)の千百年遠忌には、朝廷(光格天皇)から「神変大菩薩」の称号を賜りました。
役行者が当社に祭った八大龍王は、水の神、仏法を守る神であり観音菩薩から慈悲の心をいただいた神様です。四月四日の秩父神社のお田植祭は、今宮神社の霊水をいただきに来られることから始まります。このように、役行者と八大龍王は、秩父霊場や秩父の人々の生活に深く係られて、今日の秩父発展の礎となられました。
明治からの百余年は、多くの人々に文化生活を享受させてはくれましたが、それは、物質文明競争の暴走で、自然破壊を招き、人々の心も又、荒ませてしまいました。これからは、もっと「水」を愛し「真理」を学んで、自然と人類が共存共栄できる世の中になることを心から祈念し「役尊神祠」(行者堂)の再建をいたしました。
平成八年三月
今宮神社宮司(今宮坊二十世)塩谷太刀雄敬白(境内掲示より)

今宮神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」