今宮坊。今宮観音堂、秩父三十四ヶ所札所
今宮坊の概要
臨済宗南禅寺派寺院の今宮坊は、長岳山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第14番観音で著名です。今宮坊は、長岳(永観2年984年寂)が大宮山満光寺と号して創建、その後長岳山正覚院金剛寺と改めた修験寺院だったといいます。明治維新後の神仏分離令により修験は廃止となり、秩父三十四ヶ所札所の第14番観音だった観音堂が、今宮神社と分離、今宮観音堂(今宮坊)として残されています。
山号 | 長岳山 |
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院号 | - |
寺号 | - |
住所 | 秩父市中町25-12 |
宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
今宮坊の縁起
今宮坊は、長岳(永観2年984年寂)が大宮山満光寺と号して創建、その後長岳山正覚院金剛寺と改めた修験寺院だったといいます。明治維新後の神仏分離令により修験は廃止となり、秩父三十四ヶ所札所の第14番観音だった観音堂が、今宮神社と分離、今宮観音堂(今宮坊)として残されています。
新編武蔵風土記稿による今宮坊の縁起
(大宮郷)八大権現社
中町の北うらにあり、所祭八座相殿、大宮賣神、神御産日神、玉漬産神、生産日神、足産日神・御食津神・事代主神、本地大日如来、木坐像長一尺三寸、例祭三月廿八日・八月廿八日なり、當宮社再建は文龜元年八月に成就して、號今宮八大権現、祭神は大宮賣神・建神籬社號今宮、其勧請八座委儀如大内御巫祭神、天正十九年十石の御朱印を附せらる、社内に東照宮御像を安置し奉る、木の御坐像束帶にて、御長一尺八分、
別當今宮坊
長岳山正覺院金剛寺と號す、本山修験、聖護院直末なり、開山長岳永觀二年四月十五日寂す(新編武蔵風土記稿より)
今宮神社掲示による今宮坊の縁起
今宮神社は、その前身を長岳山正覚院金剛寺(一〇三八)大宮山満光寺(九八四)といいました。この両寺創立以前からこの地に、伊邪奈岐大神、伊邪奈美大神が祀られていました。大宝年間(七〇一~七〇四)には、役行者(えんのぎょうじゃ)がこの地に、飛来して八王龍王を合祀し、八大社と呼ばれていました。毎年四月四日の秩父神社のお田植祭は、今宮神社の水幣(みずぬさ=竜神池の水)を以て行われ、秋の収穫の喜びが十二月三日の秩父夜祭りを盛りあげるといわれています。
奈良時代には宮中八神(大宮売神、高産日神、神産日神、生産日神、足産日神、事代主神、玉積産日神、御食津神)が祀られ、降って大日如来が習合され、八大権現社と観音堂が創られました。天文四年(一五三五)には当地に疫病が流行したため、京都今宮神社より須佐之男命(すさのとの命=健康神・樹木神)を勧請して今宮神社を創建しました。
永禄十二年(一五六九)には徳川幕府より御朱印地十石、除地七石を賜わり、組下四十九寺を結集して秩父霊地の発展に務め、元禄十四年(一七〇一)長生院神門寺(現住八番札所)と共にまっさきに「江戸開帳」を行って、江戸-秩父間の交通路を拡き、秩父三十四札所の紹介と発展に貢献したと伝えられています。
明治維新時には、神仏分離令により、今宮坊は今宮神社と今宮観音堂(現十四番)に分けられ、更に昭和二十七年には児童館建設のため、旧社殿は黒谷の聖神社に寄進され、境内地も境内建物も縮小のやむなきに至りました。しかし御祭神をはじめ、御神体、御朱印、社寶、古地図、古文書、歴代の別当、宮司の墓所、それに由緒とその精神は当神社に継承されて今日に至っています。
御神意と時代の要請に則り、昭和二十年代より凡そ五十年間、神域を児童公園として開放、秩父市と協力して地域住民の心身の健康を祈って、福祉事業に専念いたしました。
ここに御神意の大成成就を御神前に報告し、神域を本来の姿に復したく、長い由緒を踏まえ、新らたな決意を以て当神社の歩みを始めました。
平成五年四月
今宮神社宮司(今宮坊二十世)塩谷太刀雄敬白(今宮神社掲示より)
今宮坊の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 14番 今宮坊 :: 秩父三十四所観音霊場