母巣山少林寺。秩父三十四ヶ所札所
少林寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の少林寺は、母巣山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第15番観音で著名です。少林寺の創建年代等は不詳ながら、金仙寺二世清叔が開山したといいます。明治維新後の神仏分離令に伴い、秩父三十四ヶ所札所15番の母巣山蔵福寺が廃寺となり、当寺が札所を引き継いでいます。山号の母巣山は、秩父神社そばにあった旧蔵福寺の山号で、秩父神社の鎮座している「柞(ははそ)の杜」に由来します。
山号 | 母巣山 |
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院号 | - |
寺号 | 少林寺 |
住所 | 秩父市番場町7−9 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
少林寺の縁起
少林寺の創建年代等は不詳ながら、金仙寺二世清叔が開山したといいます。明治維新後の神仏分離令に伴い、秩父三十四ヶ所札所15番の母巣山蔵福寺が廃寺となり、当寺が札所を引き継いでいます。山号の母巣山は、秩父神社そばにあった旧蔵福寺の山号で、秩父神社の鎮座している「柞(ははそ)の杜」に由来します。
新編武蔵風土記稿による少林寺の縁起
(大宮郷)少林寺
柳嶋にあり、五葉山と號す、臨済宗にて郷内金仙寺末、本尊達磨、開山金仙寺二世清叔、寂年を傳へず、除地四畝四歩、(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による少林寺の縁起
市指定史跡札所十五番
母巣山少林寺
十五番札所は、もと秩父神社の傍にあった蔵福寺でしたが、明治維新の際廃寺となりこの少林寺が札所をうけついだものです。
本堂は入母屋造りで、前は千鳥破風つきの向拝をふして総体を漆喰込めで洋風が加味されております。
本尊は十一面観世音です。境内には明治十七年の秩父事件に殉職した窪田、青木両警部補の墓もここにあります。
その昔、近江賢田の商人、湯尾峠をとおりし折、怪者数人語り合うをきくと「今年は江州に疫病流行させんとしたが、定朝の十一面観音に阻まれてそのことならず、東に行き彼の地を荒さん」とさては疫神ならんと恐れ、定朝自作の十一面観音を授かり、仏意の霊験によりこの地に堂を建立し祭りたため疫難を免れたという縁起があります。
昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定(境内掲示より)
十五番観音札所について
十五番觀音
秩父卅四番札所の内なり、堂は西向四間四面、本尊十一面觀音、木立像長一尺二寸五分、定朝作、享保十七年回禄のとき、本尊の厨子破壊せしゆへ、元文元年柳營に仕ふる婦女、秀小路施主にて再興せしよし、此婦女は萬里の小路前亜相雅房卿の息女なりといへり、この本尊はもと近江國坂本にましませしを、同國堅田の上人守り来り、此地に安置しけるにより、永く靈場となる事蹟【圓通傳】に奇談あれど、ここに略せり、此森を柞の森といふ、柞の森は山城國にあり、詠歌に云、嬰子の母そのもりの蔵福寺、父もろともに誓たのもし、
別當蔵福寺
母巣山と號す、妙見社地の内にあり、曹洞宗、郷内廣見寺末、本堂に阿彌陀・文殊・普賢を安ず、又達磨あり、開山東雄朔方明應二年八月十五日示寂す、
札堂。順禮の札を納る所十王を安ず、
寺寶
阿竹大日姿見鏡二面。天下一中嶋伊勢の作、江戸大傳馬町佐久間氏の下女竹所持なり、故ありて享保廿一年四月武州埼玉郡大瀬村の村民、小嶼伊五右衛門奉納せしと云、
化石地蔵一體。弘法大師爪彫の地蔵と云、
五色の糸。桂昌院様御奉納の品也と云
眞向彌陀一軸。来迎彌陀同
西方彌陀一軸。何れも琢如上人衣の袖に畫し者と云、
法華經一軸(新編武蔵風土記稿より)
少林寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿