石龍山橋立堂。秩父三十四ヶ所札所
橋立堂の概要
曹洞宗寺院の橋立堂は、石龍山と号し、秩父三十四ヶ所札所の第28番観音で著名です。橋立堂の創建年代等は不詳ながら、当地の岩かげには縄文時代草創期から古墳時代後期までの長期間定住していたことが判明しています。江戸期には、修験石龍山橋立寺が、橋立鍾乳洞全体を堂宇として、橋立堂の別当寺となっていました。
山号 | 石龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 橋立堂 |
住所 | 秩父市上影森675 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
橋立堂の縁起
橋立堂の創建年代等は不詳ながら、当地の岩かげには縄文時代草創期から古墳時代後期までの長期間定住していたことが判明しています。江戸期には、修験石龍山橋立寺が、橋立鍾乳洞全体を堂宇として、橋立堂の別当寺となっていました。
新編武蔵風土記稿による橋立堂の縁起
(上影森村)廿八番觀音
秩父卅四番札所の内なり、堂は南向三間四方、本尊馬頭觀音長七寸二分、[【圓通傳】には一尺三寸と載せたり]木の坐像弘法大師の作、此地や人家を距ること頗る遠く松杉など茂れり、堂前には橋立川の渓流あり、堂後ろには懸巌高く聳て屏障の如く、高さ三四十丈亘り二町餘許東西に羅立せり、其色赤白黒にして、光彩燦然として畫くが如き、殊勝景の地なり、其下にも盤岩つゞきていと趣あり、別當橋立寺そこに立てり、其西邊に岩窟あり、これを胎内潜りと呼り、初め入や西口よりし、出るや東口よりす、出入する所の兩口とも甚狭く、僅に身を容るるばかり、圃して出入せり、最も中は暗く、日月の光を容れず、風雷の聲を通ぜず、向ふ所晦冥にして、往々に乳水點滴せり、郷道の者ありて、人まいに燭を乗らしめて入るに、穴口を下ること漸深くして、或は高く或は廣く、陟降二町半許の間、往々に梯子を設ること五ヶ所、又は材木或は板などを桟架して、渉る所その數少なからず、扨又其間には自然と佛體佛具などの形状を模せり、郷道の者の指點して演舌する所略、其櫱を云はゞ入口より下ること三十歩許にして、蓮華弘誓の雲波無名の瀧乳房等の岩あり、茲にて兩岐し、左に入ること一町半許、その間には頻都留石賽河原地蔵尊、又は見目齅鼻三途川の姥石、或は白髭明神に西宮恵比須・牛馬の岩窟、それより三寶荒神浄頗黎の鏡石、大黒天・辨財天及び十五童子の名岩あり、茲にて行止りとなれば、兩岐せし所まで舊路に復して右に進み、梯子を登ること十七級、それより三十三天・夜摩天・兜率天・四天王・快楽天・他化自在天・忉利天と稱する所あり、又は天人影向石彌勒佛等あり、又梯子を登ること九級、左に五色の瀧大梵天など稱する所あり、又は千手觀音・五智如来・五大尊あり、或は昇り瀧或は難界カ谷とて底際もしれぬ暗谷あり、又は蓮華幔の岩窟、或は降り龍佛天蓋等あり、又梯子を登ること八級、右に百萬遍の念珠来迎柱、或は五百羅漢に、弘法大師の護摩壇、十六善神三世諸佛影迎石など云へるあり、又は天の逆鉾独鈷石、八大觀音の岩窟等あり、又梯子を登ること八級にして、岩穴狭窄なれば匍匐(ほふく)して東口より出るなり、以上命ずる所のもの皆形を以て呼べり、斯の如きは實に天然造化の工にして、塵寰えを出たる佛區の一奇境なり、觀音を巡禮するもの、此岩窟に入しことを穴禅定と云へり、さて此穴禅定の権輿を尋るに、往古より年久しきことなりしが、中頃久那村と此村と争訟ありて、此こと止みしが、元禄年中に三谷助大夫と云ひしもの再興せしとぞ云傳ふ、按ずるに郡中は諸郡にすぐれ、層巒山嶽多く、壑谷竇穴少なからずと云へども、斯る岩窟は比類なき靈蹝なり、宜なるかな釋氏の徒、漫に事を設け名を求め、種々の名目をあげて、人をして佛乗に歸依せしむることや、縁起の略に曰、我葦原中洲は、觀世音菩薩垂跡の洲にして、奇區靈跡は支那竺乾にも譲らず、就中父忍廿八番は郡の南にあたりて、具には天橋立と云、本尊馬頭觀世音は岩窟出現の大士なり、抑此岩窟は七寶所成にして、金胎兩部の蓮華蔵海なり、東西に口ありて日月相對すと云々、【圓通傳】には此觀音の像は、當山に年久しき柚の木を以て、弘法大師作れりとあり、今茲に是非を論ぜず、兩説をあぐ、詠歌に曰、霧の海立かさなるは雲の浪、類ひあらしとわたる橋たて、
奥院。前に載する岩窟をさして云
別當橋立寺
石龍山と號す、庵室の如き小堂にて、堂宇を置けり、大宮郷修験、今宮坊の持なり、【圓通傳】によるときは、大蛇霧の海を出て、觀音の利生にて得脱し、金鱗變じて石となるにより、石龍山と號すと記せり、今は霧の海と云ひし所もしれず、大蛇の石龍と化せしものをも見ず、所謂釋氏の徒奇怪の説を傳ふるものに似たり、爾は云へど、按ずるに桑田變じて海となると聞けば、往古のことは今より測り知るべからず、若しくは橋立川のあたりなどに、淵或は湖水等にてもありしものならんか、(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による橋立堂の縁起
市指定史跡札所二十八番
石龍山橋立堂
この札所は、高さ八十米もある石灰岩の直立した岩壁下に建てられ、堂は三間四面、宝形屋根で江戸中期になるものといわれます。
本尊は馬頭観世音菩薩坐像で、像高二八糎の小さいものですが、三面六臂の姿はひきしまり、鎌倉時代の優秀な作として、昭和三三年七月市の指定文化財になっています。
縁日には近在から来る馬を曳いた参詣者で雑踏を極めたといいます。
その昔此の地に惨酷非道、仏神の信心なき領主、領地をみまわり、銅をもって鋳し地蔵菩薩像を里人崇敬し得るをみて、仏神の益何事あろうと、打ちこわしその財を己れに費やせば、領主たちまち病に死し、その子孫すべて跡方なく消えたという。
まもなく大蛇出て里の憂いとなり、里人は一心に当山に祈ればいづくなく白馬現われ心よげに走り大蛇この馬を一口に呑まんとするに、白馬の額より光明をさせば、たちまち大蛇人語を発し「吾先に死し領主なりいままさに仏知にひかれた得脱を得たり、吾この姿を末代にとどめて衆生の信心をはげまさん」と池中より出れば金鱗変じて石となり、白馬は本尊の御帳に走り入りたという縁起があります。
昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定(境内掲示より)
橋立堂所蔵の文化財
- 秩父札所二十八番石龍山橋立堂(秩父市指定史跡)
- 札所二十八番馬頭観世音坐像(秩父市指定有形文化財)
- 橋立岩かげ遺跡(秩父市指定史跡)
- 橋立鍾乳洞(埼玉県指定天然記念物)
秩父札所二十八番石龍山橋立堂
直立した岩壁下に食い込むようにたてられたこの堂は、三間四面、方形屋根朱塗りで、江戸中期のものです。
秩父札所の中で馬頭観音を本尊とするのは橋立堂ただひとつで、縁日には馬を飼う人の信仰を集め馬を曳いた多くの参詣者でにぎわったそうです。また、現在でも多くの絵馬が納められています。(管理者龍河山大渕寺・秩父市教育委員会掲示より)
札所二十八番馬頭観世音坐像
この馬頭観世音は、木造寄木造りの漆箔三眼、三面四臂の像で、現在は四臂の一部と馬頭を欠いているが、像高二六・五センチ、鎌倉時代の優秀作である。
昭和三十三年奈良博物館長石田茂作博士を班長とする秩父観音霊場学術調査団の総合調査により判明したもので、秩父観音霊場の中でも注目される貴重な佛像である。
昭和三十三年七月九日指定(秩父市教育委員会・札所二十八番石龍山橋立堂掲示より)
橋立岩かげ遺跡
橋立岩かげ遺跡
岩かげ遺跡は、埼玉県下でも山間部の秩父地方の特色を示すもので、激しい風雨でも充分しのげるようになっています。
この橋立岩かげ遺跡は、発掘調査により、縄文式土器の最古の型式の土器や石器、弥生式土器、土師器等が出土し、縄文時代草創期から古墳時代後期までの長いあいだ使用されていたことがわかっています。
特にこの遺跡は、埼玉県の縄文時代の研究の推進に大きな役割を果たしました。(管理者龍河山大渕寺・秩父市教育委員会掲示より)
橋立堂の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿