石橋八幡神社。東松山市石橋の神社
石橋八幡神社の概要
石橋八幡神社は、東松山市石橋にある神社です。石橋八幡神社は、慶長元年(1596)に鶴岡八幡宮を勧請して創建したとも、松山城主上田氏の家臣山田伊賀守を祀った社とも伝えられ、穴八幡・若見文八幡社と称されてきました。村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治40年字附川の稲荷神社、字城山の五社大神社、字上宿の愛宕神社を合祀しています。当社は若宮八幡古墳上に鎮座、若宮八幡古墳は6世紀後半に築造された古墳で、埼玉県史跡に指定されています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | 倉稲魂命、武御名方命、菅原道真、別雷命、素戔嗚尊、軻遇突智命 |
境内社 | 招魂社 |
祭日 | 春祭り4月15日、例大祭10月15日 |
住所 | 東松山市石橋1674 |
備考 | - |
石橋八幡神社の由緒
石橋八幡神社は、慶長元年(1596)に鶴岡八幡宮を勧請して創建したとも、松山城主上田氏の家臣山田伊賀守を祀った社とも伝えられ、穴八幡・若見文八幡社と称されてきました。村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治40年字附川の稲荷神社、字城山の五社大神社、字上宿の愛宕神社を合祀しています。
境内掲示による石橋八幡神社の由緒
当所石橋の八幡神社は誉田別尊(應神天皇)を主祭神と斎きまつり明治四十年三月二十三日字附河稲荷神社、城山五社大神、上宿愛宕神社を合祀せる古社なり。
(中略)
当社は私達祖先により慶長元年村内守護のため此の地の古墳上に社殿を造営し相模国鎌倉の鶴岡八幡宮より神霊を分祀し代々祭祀怠らず厚き神護の下営々として村づくりにいそしみ来たれり。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による石橋八幡神社の由緒
(石橋村)
若宮八幡社
村の鎮守にて定宗寺持、相傳ふ當社は、古へ松山の城主上田氏の臣、山田伊賀守を祭りし社にして今も此社の下に、伊賀守の形骸を蔵めし石棺ありと云、又土人の話に明和の頃にや、村民善右衛門と云者、伊賀守の子孫なればとて、試に此地を穿ちしに、果して石棺を得たり、其蓋に伊賀守の名仄にみえしと云、伊賀守のことは、郡中腰越村城蹟の條にも出たれば、照しみるべし、法名は是心院道悟日眞大居士と稱せり、又云伊賀守が子三人ありしに、御打入の後各召出れ、旗下の士となり、長男は故ありて致仕し、當村へ来り住せり、其子孫世々農民となり、かの善右衛門家衰へたつきもならざりしゆへ、後攝州大坂の邊へ移りしと、今村内に其別家と云者、三軒殘れりと云、山田系譜を見るに伊賀守の長男仕を致せしこと見えず、土人の傳ふる所疑ふべし、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による石橋八幡神社の由緒
八幡神社<東松山市石橋二二四〇(石橋字若宮)>
石橋の地内には、縄文中期・平安期の集落跡である岩の上遺跡、縄文前・中期及び古墳後期の塚原遺跡、縄文後期・弥生中期の雉子山遺跡、古墳後期の附川古墳群・青鳥古墳群など、実に遺跡が多い。
当社の境内もまた古墳になっており、若宮八幡古墳と呼ばれ、県史跡の指定を受けている。この古墳は、横穴石室を持った前方後円墳で比企地方の後期古墳を代表するものの一つである。当社の社殿は、その真上に建てられている。なお、若宮八幡古墳の石室は、胴張りを持った特徴ある形をしているが、このような石室は七世紀ごろ急速に松山台地に伝播し、この時期の石室構築の主流になったと考えられる。
当社は、江戸時代には若宮八幡社と呼ばれ、地内にある天台宗の定宗寺が別当であった。創祀については、慶長元年(一五九六)に相州鎌倉(現神奈川県鎌倉市)の鶴岡八幡宮から分祀したものと伝えられ、境内に古墳の石室の入口が開口していることから「穴八幡」と呼び親しまれてきた。現在、この石室の入口には、文化財保護の目的で市の教育委員会によって柵が設けられているが、かつては自由に出入りができたため、太平洋戦争の戦時下にあって空襲時の避難場所としても利用された。
また、別の口碑によれば、当社はかつて松山城の城主であった上田氏の家臣、山田伊賀守を祀った社で、今も社殿の下には伊賀守の遺骸を納めた石棺が埋められているといい、『風土記稿』には、明和のころ(一七六四-七二)、山田伊賀守の裔、善右衛門が社殿の下を掘ったところ、石棺が確かにあり、その蓋に伊賀守の名がかすかに読み取れたとの記事が載る。
右のような伝説が形を整えたのは、江戸時代の中ごろのことではないかと思われ、古代築造の若宮古墳の石室・石棺に山田伊賀守の伝説が結びつけられたものなのであろう。
また、社の下を掘った善右衛門の末裔に当たる山田吉次家では、当社が同家の氏神であったとの口碑も伝えている。
別当の天台宗定宗寺は、創建年代は明らかでないが、中興開山は第一三世法印能存といい、慶安三年(一六五〇)に入寂している。往時、青鳥城の城内にあったものを移転したといわれているが、詳細は不明である。
神仏分離後、当社は定宗寺の管理を離れ明治四年に村社となった。更に、同四十年三月には政府の合祀政策に従い、字附川の稲荷神社、字城山の五社大神社、字上宿の愛宕神社の三社が合祀されたことが『明細帳』に載る。ただし、これら三社とも、古来厚く信仰されてきた社であったことから、いずれも社殿はそのまま旧地に残され、従来通り祭りも行われている。(「埼玉の神社」より)
石橋八幡神社所蔵の文化財
- 若宮八幡古墳
若宮八幡古墳
古墳は、三世紀の中頃から七世紀の終わり頃にかけて造られた、地域を治めていた権力者のお墓です。東松山市には、発掘調査等で発見された古墳を含め、これまでに五百基以上の古墳が確認されていますが、原形をとどめている古墳はごくわずかとなっています。
児童文学者の打木村治の小説『天の園』の一節に、「恐怖の八幡穴」と紹介されている若宮八幡古墳は、今から約千四百五十年前の六世紀後半に造られた古墳です。この古墳の素晴らしさは、ほぼ造られた当時のままの形で、石室(埋葬施設)が今日まで残っているところです。
石室は、羨道、前室、玄室の複室構造の横穴式石室です。石室に使われている石は、砂質凝灰岩で、四角に加工した石の角をL字に切り込んで組み合わせながら積む「切石切組積工法」を採り、更に両側の側壁が弧を描くよう膨らむ胴張型となっており、天井石の重みを分散させる構造になっているなど、造られた当時の土木技術の高さがうかがえます。
平成二十二、二十三年の修復保存整備に伴って行われた調査では、地表面に整地土を敷き平らに固めた後に、根石と言われる基礎になる石を設置していることや天井石が厚いかまぼこ型をした砂質凝灰岩であることが新たに判りました。(東松山市教育委員会掲示より)
石橋八幡神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)