上野本氷川神社。東松山市上野本の神社

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上野本氷川神社。東松山市上野本の神社

上野本氷川神社の概要

上野本氷川神社は、東松山市上野本にある神社です。上野本氷川神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には野本のうちの金谷地区の鎮守としていました。当社の秋祭りに奉納される「金谷の餅つき踊り」は、坂上田村麻呂が岩殿山の悪竜を退治した際に村人がもてなしたことに由来すると伝えられ、埼玉県民俗文化財に指定されています。

上野本氷川神社
上野本氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 -
境内社 -
祭日 春祭4月3日、夏祭り7月18日、秋祭り10月29日
住所 東松山市上野本64
備考 -



上野本氷川神社の由緒

上野本氷川神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には野本のうちの金谷地区の鎮守としていました。

新編武蔵風土記稿による上野本氷川神社の由緒

(野本村)
氷川社
金谷の鎮守にて、圓満寺の持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による上野本氷川神社の由緒

氷川神社<東松山市上野本五二〇(上野本字宮後)>
東松山の市街をわずかに離れた所にある上野本は、畑作を主体とする農業地域として発展してきた。野本の地名については、ちょうどこの地が都幾川左岸の低地と松山台地との境に当たっていることから、「武蔵野の始まるところ」という意味であるといわれ、元来は、現在の下野本と共に一村をなしていたが、明治五年に上下に分村した。しかし、『旧高旧領取調帳』には「上野本村」として一二一二石余の村高が記されていることから、少なくとも江戸時代の後期には、実質上、上下に分かれていたことが推測される。
『風土記稿』野本村の項には、村内には金谷・曲輪・在家の三つの小名があり、当社は、そのうちの金谷の鎮守であり、円満寺の持ちであったとの記事がある。この記事に出てくる円満寺とは、氷川山と号す天台宗の寺で地内にあったが、神仏分離の際に廃寺となり、現在では寺伝も明らかではない。また『風土記稿』は、当社に続けて、在家には八幡社、曲輪には十二天社がある旨を記している。
当社の創建は、仁治二年(一二四一)二月十五日で、その後長禄二年(一四五八)三月一日、宝暦八年(一七五八)二月六日にそれぞれ再建されたとの伝えがある。更に昭和十七年七月七日に本殿・幣殿・拝殿共に新築され、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)


上野本氷川神社所蔵の文化財

  • 金谷の餅つき踊り

金谷の餅つき踊り

餅をつく所作に、歌や曲芸のようなつき方が加わり、芸能となったものが「餅つき踊り」です。。毎年十一月二十三日に氷川神社(旧・金谷地区の鎮守)の境内にて、豊作を感謝して奉納されます。
平安時代の武官・坂上田村麻呂が岩殿山の悪竜を退治した際、喜んだ村人が踊りながら餅をつき、もてなしたのが始まりと伝えられています。
はじめに大木遣りを歌いながら杵を担いで境内に入ります(練り込み)。祝詞を上げ、臼の縁を叩いて景気をうけ(空づき)せいろに入った蒸し米を頭上に掲げて舞いながら臼に投入します(せいろかぶり)。蒸し米を圧し潰して練り(大練り)、水を付けたら(手合わせ)、いよいよ「つき」の工程に入ります。
「つき」は主に三人で行います。前半は大きい杵を使い(片かむり・両かむり・よろけづき・片かむりの四本づき)、後半は小杵に持ち替えてつき(にらめづき・けこみづき・かぶりづき・廻しけこみ・よろけづき・十文字づき)、餅をつきあげます。
このように「しっかりと定まった型を持つ」ことが最大の特徴で、昭和三十五年三月一日に埼玉県指定無形民俗文化財に指定されました。(東松山市教育委員会掲示より)

上野本氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)