玉太岡神社。東松山市岡の神社
玉太岡神社の概要
玉太岡神社は、東松山市岡にある神社です。玉太岡神社の創建年代等は不詳ながら、光福寺の宝篋印塔に「武州比企郡玉太岡四国山光福寺」と刻されていることから、この宝篋印塔の奉納された元享3年(1323)には、当地が玉太岡と呼ばれて開発が進んでおり、その頃に勧請されたのではないかとも思われます。江戸期には神明社・雷電社が岡郷の鎮守とされ、この両社が合殿され、明治4年玉太岡神社と改称の上村社に列格しています。
社号 | 玉太岡神社 |
---|---|
祭神 | 天照大神 |
相殿 | - |
境内社 | 八雲神社 |
祭日 | 例祭日10月17日 |
住所 | 東松山市岡662 |
備考 | - |
玉太岡神社の由緒
玉太岡神社の創建年代等は不詳ながら、光福寺の宝篋印塔に「武州比企郡玉太岡四国山光福寺」と刻されていることから、この宝篋印塔の奉納された元享3年(1323)には、当地が玉太岡と呼ばれて開発が進んでおり、その頃に勧請されたのではないかとも思われます。江戸期には神明社・雷電社が岡郷の鎮守とされ、この両社が合殿され、明治4年玉太岡神社と改称の上村社に列格しています。
新編武蔵風土記稿による玉太岡神社の由緒
(岡郷)
神明社
雷光寺の持、
--
雷電社
同寺の持、以上二社共に鎮守なり(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による玉太岡神社の由緒
玉太岡神社<東松山市岡七四五(岡字打上)>
近世、岡郷と呼ばれた和田吉野川の右岸に位置する地域は、北から上岡・中岡・下岡と、三つの地区からなっている。中でも、当社の鎮座する下岡は最も早く開発が進んだ地といわれ、その地内にあり、行基作と伝えられる十一面観音像を本尊とする光福寺は、開山の章山が永禄十年(一五六七)寂と伝えられる寺院である。この光福寺の境内には、国宝にもなっている元享三年(一三二三)の宝篋印塔があり、その銘文に「武州比企郡玉太岡四国山光福寺」とあることから、当時この地が玉太岡と呼ばれていたことがわかる。
当社は、拝殿に掛けられている古い社号額に併記されているように、神明宮と雷電宮の合殿である。ただし『風土記稿』には「神明社 雷光寺の持、雷電社 同寺の持、以上二社共に鎮守なり」と記されており、本来両社は別々の神社であったと考えられる。恐らく神明社は近くにある上吉見領総鎮守の吉見神社(神明社)からの勧請であろうし、雷電社はその寺名から雷光寺にかかわる勧請であろう。
神仏分離によって、雷光寺は廃寺になり、当社は明治四年に村社になった。この時、宝篋印塔にも刻まれた当地の古称である「玉太岡」を採って、玉太岡神社と改称した。ちなみに本殿は神明造りで、嘉永五年(一八五二)に再建されたものであるという。(「埼玉の神社」より)
玉太岡神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)