四國山光福寺。国宝・重要文化財の宝篋印塔
光福寺の概要
曹洞宗寺院の光福寺は、四國山と号します。光福寺の創建年代等は不詳ながら、「武州比企郡玉太岡四国山光福寺」と銘文のある元享3年(1323)の宝篋印塔が残されていることから鎌倉時代末期には既に当地にあったことが知られ、章山(永禄10年1567年寂)が開山、慶安2年(1649)には幕府より寺領8石の御朱印状を受領していました。この宝篋印塔は国宝・重要文化財に、また板石塔婆は埼玉県考古資料に指定されています。
山号 | 四國山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 光福寺 |
本尊 | - |
住所 | 東松山市岡498 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光福寺の縁起
光福寺の創建年代等は不詳ながら、「武州比企郡玉太岡四国山光福寺」と銘文のある元享3年(1323)の宝篋印塔が残されていることから鎌倉時代末期には既に当地にあったことが知られ、章山(永禄10年1567年寂)が開山、慶安2年(1649)には幕府より寺領8石の御朱印状を受領していました。この宝篋印塔は国宝・重要文化財に、また板石塔婆は埼玉県考古資料に指定されています。
新編武蔵風土記稿による光福寺の縁起
(岡郷)
光福寺
曹洞宗足立郡里村法性寺の末、四國山と號す、慶安二年八月廿四日釋迦堂領八石の御朱印を賜ひしより今も替らず、本尊十一面觀音、行基の作、開山は本山五世章山永禄十年二月廿一日寂すと云ど、境内釋迦堂の前に元享癸亥の古碑あれば、舊地にして章山中興せし僧なること知べし、又村内知足院茂林寺といふありしが、明暦の頃回録に罹りしに、其をりふし當地も殆ど廢寺となるべき様なるを、彼知足院を此に移来り、合して一宇となせり、其寺の開山は則知足茂林と號せしと、寺僧の傳へり、本堂の軒に大鐘を掛く、寛政十一年鑄造のことを彫れり、
神明熊野稲荷合社
八幡天神合社
釋迦堂。行基の作、坐像六尺、御朱印は此堂に附させ給ひしものなり、
薬師堂
地蔵堂
寶篋塔。表に、奉造立宝篋印塔一基と彫り、裏面に又數十字を彫れり、其文左に載す
右塔婆者、大日本武州
比企郡玉太岡、四國山
光福寺、禅師沙門鏡空了圓
元享癸亥、佛成道日、起之、誌之
當寺大旦那比丘尼妙珊、
藤原光貞朝臣
施主沙彌閣阿(新編武蔵風土記稿より)
光福寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」