法長山妙賢寺。松山城主上田朝直寄進の十界曼荼羅
妙賢寺の概要
日蓮宗寺院の妙賢寺は、法長山と号します。妙賢寺は、文永元年(1264)に真言宗和泉坊善学法印が靏間山長寿院と号して開創、長光院日祐(貞治元年1362年寂)が永仁2年(1294)日蓮宗寺院に改めて長祐山妙光寺と改称したといいます。大正2年雷火により焼失した松山滝下の賢住寺を合併、法長山妙賢寺と公称しています。当寺の十界曼荼羅は、東松山城主上田朝直が、池上本門寺11世仏寿院日現から拝領したものを、自身の建立した賢住寺に寄進したもので、東松山市文化財に指定されています。
山号 | 法長山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙賢寺 |
本尊 | 一塔両尊四士 |
住所 | 東松山市松本町1-11-56 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙賢寺の縁起
妙賢寺は、文永元年(1264)に真言宗和泉坊善学法印が靏間山長寿院と号して開創、長光院日祐(貞治元年1362年寂)が永仁2年(1294)日蓮宗寺院に改めて長祐山妙光寺と改称したといいます。大正2年雷火により焼失した松山滝下の賢住寺を合併、法長山妙賢寺と公称しています。
「日蓮宗寺院大鑑」による妙賢寺の縁起
文永元(1264)年の創立。開山長光院日祐。池上・神楽坂法縁、住職は芳師法縁。大正2年に妙光寺と賢住寺が合併。妙光寺は文永元年、真言宗和泉坊善学法印開創の靏間山長寿院を、永仁2(1294)年に日祐が改宗し、長祐山妙光寺と改称。6世日現の代、上田能登守朝直が諸堂建立。妙法華寺より本門寺末となり、栖林院の号を冠した。賢住寺は、松山滝下にあった池上16世長遠院日樹開山の妙経寺を、寛永2年に山田伊賀守の娘富子が流川村原屋敷に移転建立し、妙法山賢住寺と号したもの。大正2年賢住寺が雷火により焼失、妙光寺と合併して法長山妙賢寺と公称。(「日蓮宗寺院大鑑」より)
新編武蔵風土記稿による妙賢寺の縁起
(松山町)
妙光寺
日蓮宗、荏原郡池上本門寺の末、開山長光院日祐、貞治元年正月十四日示寂といへば、舊き寺なり、長祐山栖林院と號す、本尊釋迦を安ず、(新編武蔵風土記稿より)
妙賢寺所蔵の文化財
- 上田朝直寄進の十界曼荼羅(東松山市指定文化財)
上田朝直寄進の十界曼荼羅
縦一〇九・五cm、横三九・五cmの軸で、外題に「当山中興現師本尊」としるされ、中央には、「南無妙法蓮華経 日現(花押)」という題目とその著者の署名が大きく書かれ、下の右に「上田左近太夫源朝直建立 靏間山 栖林院常住」、左に「天文十九年庚戌」と、授与する文言がしるされています。この曼荼羅は、天文十九年(一五五〇)に日現が書いて上田朝直の建てた栖林院にさずけたものです。
この記事や寺伝や過去帳とつきあわせると、日現は日蓮宗両山系の本山にあって、天文十八年ころ第十一世貫主の地位についた仏寿院日現(一四九六~一五六一)であり、栖林院というのは、長裕山栖林院妙光寺といい、妙賢寺が合併するまえのこの寺妙光寺と符合します。上田朝直とは、松山城主の案独斎のことであります。
この曼荼羅は、天文十九年の春に七十九歳でなくなった母のために上田朝直が亡き母の法名にちなんだ、栖林院(妙光寺)という菩提寺をいとなみ、日ごろ帰依する日現にたのんで、この寺の本尊として下付してもらったものです。(東松山市教育委員会掲示より)
妙賢寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」