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利仁山無量寿寺。東松山市下野本にある曹洞宗寺院

無量寿寺の概要

曹洞宗寺院の無量寿寺は、利仁山と号します。無量寿寺の創建年代等は不詳ながら、利仁将軍が武蔵守在任中に居を構えたとされる当地に、利仁山野本寺と称して創建したといいます。その後応永年間の戦乱で荒廃していた当寺を、長享年間(1487-1488)に僧性岱(明応5年1496年寂)が禅宗寺院として再興、利仁山無量壽寺と号したといいます。徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領しています。当地は野本基員を初代とする野本氏一族の館跡で、東松山市文化財に指定されています。

無量寿寺
無量寿寺の概要
山号 利仁山
院号 -
寺号 無量寿寺
本尊 釈迦牟尼佛像
住所 東松山市下野本662
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



無量寿寺の縁起

無量寿寺の創建年代等は不詳ながら、利仁将軍が武蔵守在任中に居を構えたとされる当地に、利仁山野本寺と称して創建したといいます。その後応永年間の戦乱で荒廃していた当寺を、長享年間(1487-1488)に僧性岱(明応5年1496年寂)が禅宗寺院として再興、利仁山無量壽寺と号したといいます。徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領しています。

新編武蔵風土記稿による無量寿寺の縁起

(野本村)
無量壽寺
曹洞派、遠江國榛原郡高雄村石雲寺の末、天正十九年十一月御朱印を附られ、村内十石の地を賜へり、利仁山と號す、寺領の外境内一萬四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡殘れり、當寺の濫觴を訪るに、往古利仁将軍武蔵守たりし時、當所に住し後任みちて下野國へ移り住す、後土人名将の古蹟なりとて一寺を建立し、利仁山野本寺と號す、然るに應仁の頃關東亂れ、軍勢亂妨し寺塔傾廢せしを、長享年中僧性岱と云るが再び起立し、禅刹となし利仁山無量壽寺と號す、性岱は明應五年十月廿七日寂すと云、往昔利仁将軍の陣屋なりなど云も、まさしく記録なければ、今より考ふべからず、本尊彌陀を安ず、春日の作と云、本堂の内古鐘一口を掛く、相傳ふ貞享二年四月本堂後背の地を掘りしことありし時、地中より得たりと、此鐘銘をもて當寺元、野本寺といひし古刹なること知らる、鐘銘は左に載す、
奉鑄鐘一口二尺七寸
野本寺
諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅爲楽
右紀忠清幷橘氏女爲大施主 爲佛法興隆爲衆生利益也、
建長六年甲寅二月十五日
白山社
辨天社
稲荷社
薬師堂
利仁将軍社。境内にあり、繞り一町四方、高さ四五尺にて、雑木生ひ茂れる塚あり、将軍塚又将軍山ともいへり、塚上に利仁の靈を祀れり、當寺の鎮守なり、(新編武蔵風土記稿より)


いいお墓

無量寿寺所蔵の文化財

  • 野本館跡(東松山市指定文化財)

野本館跡

野本基員(のもともとかず)を初代とする野本氏一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(八三六~八九一・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は、源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物です。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀りは当初からのものではなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた『新編武蔵風土記稿』の無量寿寺の項には「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。
館が造られた時期については、基員が貞永元年(一二三二)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長六年(一二五四)銘の銅鐘の拓本より。当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても十三世紀の初め頃には館が造られていたと考えられています。(東松山市教育委員会掲示より)

無量寿寺の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」