大願山浄光寺。東松山市下青鳥にある天台宗寺院
浄光寺の概要
天台宗寺院の浄光寺は、大願山成就院と号します。浄光寺は、覚詮(寛元元年1243年寂)が開山となり、青鳥山延命寺と号して、仁治元年(1240)小名延命寺の地に創建したといいます。寛治2年(1248)後深草院の勅願所となり、山号を大願山へ改号、さらに天正年間(1573-1591)当地へ移転し、寺号を浄光寺と改号しています。江戸期には末寺門徒寺39ヶ寺を擁する中本寺格の寺院で、慶安年間(1648-1652)には幕府より寺領23石の御朱印状を受領していました。当寺所蔵の板石塔婆のうち三基が東松山市有形文化財に指定されています。武蔵国十三仏霊場の薬師如来、比企西国三十三所観音霊場20番(旧久遠山千住寺)、中武蔵七十二薬師51番です。
山号 | 大願山 |
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院号 | 成就院 |
寺号 | 浄光寺 |
本尊 | 延命地蔵菩薩像 |
住所 | 東松山市下青鳥126 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄光寺の縁起
浄光寺は、覚詮(寛元元年1243年寂)が開山となり、青鳥山延命寺と号して、仁治元年(1240)小名延命寺の地に創建したといいます。寛治2年(1248)後深草院の勅願所となり、山号を大願山へ改号、さらに天正年間(1573-1591)当地へ移転し、寺号を浄光寺と改号しています。江戸期には末寺門徒寺39ヶ寺を擁する中本寺格の寺院で、慶安年間(1648-1652)には幕府より寺領23石の御朱印状を受領していました。
新編武蔵風土記稿による浄光寺の縁起
(下青鳥村)
浄光寺
天台宗、上野國世良田長楽寺末、慶安年中寺領廿三石の御朱印を給ふ、大願山成就院と號す、末門三十九ヶ寺の本寺なり、寺傳に云當寺は仁治元年の草創にして、開山を覺詮と云、寛元元年四月八日寂す、始は青鳥山延命寺と號し、村内の小名延命寺の地にありしが、寛治二年九月七日後深草院の勅願所となり、其時今の山號に改め、其後遥の世を經て、天正年中今の地に移りて、寺號を改めしとなり、かかる古刹なれど、二十世日海現住たりし時、慶長五年閏二月廿三日雷火の爲に、堂宇及び寺寶・古記録に至るまで烏有となり、其詳なることはすべて傳へず、本尊は地蔵にて、行基の作と云、
鐘樓。貞享五年鑄造の鐘をかく、(新編武蔵風土記稿より)
浄光寺所蔵の文化財
- 浄光寺の板石塔婆三基(東松山市指定文化財)
浄光寺の板石塔婆三基
板石塔婆は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、死者の追善供養や死後の極楽往生を願って造立された石製の供養塔婆です。この地域では、緑泥片岩を使用した武蔵型板石塔婆が盛んに作られました。
一、阿弥陀三尊を半浮彫りにした初期の板石塔婆です。蓮台の上に阿弥陀如来が乗り、阿弥陀三尊来迎図を表しています。建長二年(一二五〇)庚戌三月の年号が刻まれています。初期の図像板石塔婆の様子を良く留めています。高さ一六七cm、幅六〇cm、厚さ八、五cm。
二、胎蔵界大日三尊を梵字で表し全体に端正に作られてます。上部の主尊は胎蔵界大日如来で、その下の脇侍は右が不動明王、左は薬師如来です。紀年銘は、永和五年(一三七九)巳未卯月と刻まれています。板石塔婆造立の最盛期のものです。主尊は天台密教系の宗派で良く用いられるもので、当時の多様な宗派活動の様子がうかがえ貴重なものです。高さ一九七cm、幅四九cm、厚さ七cm。
三、左右に日月、天蓋と前机に三具足が表現された庚申待板石塔婆です。蓮座の上には釈迦を表す梵字が刻まれています。天正一三年(一五八五)の紀年銘を持ち、約四〇名もの村人の連名が刻まれていることから、共同で作られたことがわかります。市内で最後に造られた板石塔婆であり、また古い庚申待の石造物として貴重です。高さ一三〇cm、幅四九cm。(東松山市教育委員会掲示より)
浄光寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」