扇谷山宗悟寺。比企能員の娘若狭局ゆかり、蛇苦止観音
宗悟寺の概要
曹洞宗寺院の宗悟寺は、扇谷山と号します。宗悟寺は、比企能員の娘で、鎌倉幕府2代将軍源頼家(長福寺圓壽昌大居士)に嫁いだ若狭局が、源頼家の横死後比丘尼山に隠棲、源頼家の菩提を弔うため、大谷山壽昌寺と号して創建したといいます。徳川家康の関東入国後に当地領主となった旗本森川金右衛門氏俊(桐蔭宗悟居士)が、天正20年(1592)寺を当地へ移転させて中興し、扇谷山宗悟寺と改号、慶安元年(1648)には幕府より寺領15石の御朱印状を受領していました。比企西国三十三所観音霊場33番の「蛇苦止観音」は、若狭の局が祈願したと伝えられ、菅谷堂に祀られていましたが、菅谷堂が廃堂となり、当寺に祀られています。
山号 | 扇谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗悟寺 |
本尊 | 釈迦牟尼佛像 |
住所 | 東松山市大谷400 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗悟寺の縁起
宗悟寺は、比企能員の娘で、鎌倉幕府2代将軍源頼家(長福寺圓壽昌大居士)に嫁いだ若狭局が、源頼家の横死後比丘尼山に隠棲、源頼家の菩提を弔うため、大谷山壽昌寺と号して創建したといいます。徳川家康の関東入国後に当地領主となった旗本森川金右衛門氏俊(桐蔭宗悟居士)が、天正20年(1592)寺を当地へ移転させて中興し、扇谷山宗悟寺と改号、慶安元年(1648)には幕府より寺領15石の御朱印状を受領していました。比企西国三十三所観音霊場33番の「蛇苦止観音」は、若狭の局が祈願したと伝えられ、菅谷堂に祀られていましたが、菅谷堂が廃堂となり、当寺に祀られています。
境内掲示による宗悟寺の縁起
宗悟寺は、天正二十年(一五九二年)にこの地を知行した旗本森川金右衛門氏俊が中興した寺です。
鎌倉幕府二代将軍源頼家の妻若狭の局(比企能員の娘)が持参したと伝わる「頼朝公のご位牌」、若狭の局が夫頼家公を失い、あたかも体を蛇に巻き付かれたような苦しみから逃れるために祈願したという「蛇苦止観音」がお祀りされています。
境内には、地元有志による「比企一族顕彰碑」が建立されてります。(東松山市観光協会掲示より)
新編武蔵風土記稿による宗悟寺の縁起
(大谷村)
宗悟寺
曹洞宗、豊嶋郡赤塚村松月院の末、慶安元年寺領十五石餘の御朱印を賜はれり、寺傳に當寺は鎌倉将軍賴家、元久元年七月伊豆國修善寺に於て害せられし後、其妾若狭局當所に来て剃髪染衣の身となり、前にしるせる比丘尼山に草庵を結び、賴家追福の爲として一寺を草創し、即賴家の法謚長福寺圓壽昌大居士の文字、及村名を取て大谷山壽昌寺と號すと云、按に若狭局が當所へ隠棲せしことは、他に所見なけれど、彼局は比企判官能員が女にて、賴家の長男一萬の母なるよし、将軍執権次第に載す、又【東鑑】養和二年の條に、比企四郎能員云々、武蔵國比企郡を以て請所と爲などみゆれば、賴家沒落後、當所は父能員が舊領なる、因て以隠れ住せしならん、遥の後天正二十年當所の地頭、森川金右衛門氏俊寺を今の地に移して中興し、扇谷山宗悟寺と改號す、故に氏俊が法謚を桐蔭宗悟居士と稱せり、此時の僧を喜山傳悦と云、文禄三年四月廿七日卒す、氏俊は慶安三年七月廿日卒す、本尊釋迦を安ず、
白山社
秋葉社
辨天社
稲荷社
鐘樓。寛永十四年鑄造の鐘をかく、銘文考證に益なければ略す、(新編武蔵風土記稿より)
宗悟寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」