常楽山青蓮寺。東松山市正代にある天台宗寺院
青蓮寺の概要
天台宗寺院の青蓮寺は、常楽山仙住院と号します。青蓮寺の創建年代等は不詳ながら、春慶(宝永2年1705年寂)が中興開山したといいます。埼玉県文化財に指定されている当寺の板石塔婆は、当地の小代氏一族関係者が弘安4年(1281)力を合わせてこの板碑を建立したもので、もとは高坂大地の北端大日山(現折本緑地)辺りにあったと伝えられています。
山号 | 常楽山 |
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院号 | 仙住院 |
寺号 | 青蓮寺 |
本尊 | 釈迦牟尼佛像 |
住所 | 東松山市正代864-1 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
青蓮寺の縁起
青蓮寺の創建年代等は不詳ながら、春慶(宝永2年1705年寂)が中興開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による青蓮寺の縁起
(正代村)
青蓮寺
天台宗、下青鳥村浄光寺末、常楽山仙住院と云、本尊彌陀を安ず、中興開山春慶寶永二年寂せり。(新編武蔵風土記稿より)
青蓮寺所蔵の文化財
- 弘安四年銘板石塔婆(埼玉県指定文化財)
弘安四年銘板石塔婆
この銘文には、小代氏四代目重俊(右金吾禅門とは右衛門尉の唐名で重俊のこと)の仁徳を慕って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したことが記されています。この板石塔婆が建てられた弘安四年(一二八一)は、蒙古襲来(弘安の役)の年で、一族の武運長久と団結を願う意味もこめられていると考えられています。
小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。
子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(一二四七)鎌倉幕府から肥後国野原荘(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。当時はその地に赴かず、地頭代に所領の管理を任せていましたが、文永八年(一二七一)幕府から蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へと移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。
小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。(埼玉県教育委員会・東松山市教育委員会掲示より)
青蓮寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」