大井稲荷神社。ふじみ野市大井の神社

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大井稲荷神社。江戸時代前期には既に祀られていた社

大井稲荷神社の概要

大井稲荷神社は、ふじみ野市大井にある稲荷神社です。大井稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、川越街道が整備された江戸時代前期には既に祀られ、1,600坪の神領を有していたといいます。明治維新の神仏分離令により大井氷川神社に神官が置かれると、当社のその管理下となり、明治40年(41年?)に大井氷川神社に合祀されましたが、稲荷神を個人宅地内に分祀し有志で祀ってきたといいます。昭和41年(1966)もとの場所に稲荷神社が再建され、講を中心に護持されています。

大井稲荷神社
大井稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
祭日 三月第一午
住所 ふじみ野市大井22411
備考 -



大井稲荷神社の由緒

大井稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、川越街道が整備された江戸時代前期には既に祀られ、1,600坪の神領を有していたといいます。明治維新の神仏分離令により大井氷川神社に神官が置かれると、当社のその管理下となり、明治40年(41年?)に大井氷川神社に合祀されましたが、稲荷神を個人宅地内に分祀し有志で祀ってきたといいます。昭和41年(1966)もとの場所に稲荷神社が再建され、講を中心に護持されています。

境内掲示による大井稲荷神社の由緒

稲荷神社は、山城国に住んでいた渡来人の秦氏が祀っていた神で、本来は稲をはじめとする食物や養蚕のことを司る農耕神でした。
中世以降には経済の発展に伴い、商工業神としての性格も加わり、屋敷神としても祀られるなど多くの人々に信仰されてきました。
昔から”坂上の稲荷様”と村民に親しまれてきた大井稲荷神社の創建は詳かではありませんが、江戸時代の初め頃にはすでにあったようです。祭神は宇迦之御魂命で、一六〇〇坪余の神領があり、他の七か所の町の宮と共に本乗院(徳性寺)が管理していました。江戸時代の終わり頃の記録では、氏子は一五〇戸余りで、毎年二月の初午の日に、お神楽をあげてお祀りをしていました。その頃の本社は、間口三尺九寸・奥行三間で、現在でも氷川神社境内に天明二年(一七八二)銘高さ八尺の石の鳥居が残っています。
明治維新後は、神仏習合の禁止によって、徳性寺を離れて、大井氷川神社の管理に移りました。境内も三〇〇坪余りとなり、一部は官林となりました。後に神社の修復のために立木を伐木していますが、その時の記録には、杉一三四本、槻(欅)三本とあり、うっそうとした鎮守の森があったことがうかがえます。
また、毎年初午の祭礼に備えて、上組・中組・下組で稲荷講が結成され、氏子の奉納金を元金とし、低利の貸付を行ないその利子で毎年の祭礼を日待の宿において行っていました。これでも祭礼費用全部を賄える時は少なく、不足分は各氏子より徴収されました。
明治四〇年(一九〇七)無格社である稲荷社は、他の金山社・高根社・久田社と共に大井氷川神社に合祀され、跡地も無代譲与となりました。合祀の後は、稲荷様を個人の宅地内に分祀し、有志によってお祀りしていました。
昭和四一年(一九六六)稲荷神社は、もとの場所に本社が再建され、石段・鳥居・上家も講の有志によって寄贈されました。現在では、毎年三月第一午の日が初午で、三月三日までに午の日があると「火早い」といって、第二午の日が初午になります。
初午のときは、前日の「よみや」から参拝人が訪れて賑わいます。当日境内は「おたきあげ」が行なわれ稲荷様には赤飯・油揚げなどを供えてお祀りし、午後からの「びしゃ講」では講員が宿にあつまり盛大に飲食します。そして商売繁盛、家内安全の稲荷様として多くの人々に親しまれています。(境内掲示より)

「埼玉の神社」による大井稲荷神社の由緒

氷川神社<大井町大井五七二(大井字東原)>項
明治四一年に、川越街道の坂の傍らから稲荷神社が合祀されているが、旧地には現在も社殿が残り、三月初午には当社の境内社と旧地の社殿の両社で祭りが行われている。当日境内社の方では神職による祭典が行われ、総代が参列し、後に社務所で直会が行われる。
旧地の社殿では前日の夜に近所の者が清掃をして、火を焚いて神を迎え、参列者一同で酒を飲む習わしになっている。また、旧家の三〇軒ほどで歩射講が結成されており、順番で宿当番になり、初午の当日は宿の家に歩射講の掛け軸を祀り、座敷で宴を催す。この時の御馳走は、昔はうどんと甘酒であったという。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による大井稲荷神社の由緒

(大井村)
稲荷社
村民の持、(新編武蔵風土記稿より)


大井稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)