行田八幡神社。行田総鎮守、西向き八幡、封じの宮
行田八幡神社の概要
行田八幡神社の創建年代や由緒については不詳ですが、源頼義・義家が、奥州討伐の際当地に滞陣、戦勝を祈願して佐間田中に勧請したと伝えられます。天文年中に忍城主成田下総守長泰公が当地付近へ当社を遷座、城下総鎮守としました。明暦年間に現在地に遷座したものと考えられます。行田忍城下七福神の大黒天です。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊、気長足姫尊、比亮大神、大物主神、神素羞鳴尊 |
相殿 | - |
境内社 | 愛宕神社、瘡守稲荷社、目の神社、三峯社、八坂社、水神社 |
祭日 | 例祭9月15日、祈年祭3月15日、行田八坂祭7月下旬土・日、愛宕神社祭10月23日など |
住所 | 行田市行田16-23 |
備考 | 行田総鎮守 |
行田八幡神社の由緒
行田八幡神社の創建年代や由緒については不詳ですが、源頼義・義家が、奥州討伐の際当地に滞陣、戦勝を祈願して佐間田中に勧請したと伝えられます。天文年中に忍城主成田下総守長泰公が当地付近へ当社を遷座、城下総鎮守としました。明暦年間に現在地に遷座したものと考えられます。
行田八幡神社栞による行田八幡神社の由緒
当神社は、元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失して御創祀の次第は判然と致しませんが、口碑によると源頼義・義家が、奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中八幡と称せられました。
天文年中に、現在の地に移されこの時、忍城主成田下総守長泰公は深く当社を崇敬して社殿を修補し城下総鎮守といたしました。是れより、「城主八幡」また社殿の向きから「西向き八幡」の名があります。
爾来、代々城主の尊崇篤く・殊に阿部豊後守は、八幡大神の御神像を奉献し、次いで阿部正識公も自筆の額を御献進されました。
社殿の造営は、元和五年再営、宝永年間焼失、宝永四年再建、宝永五年幣殿・拝殿を再建、弘化三年行田大火により社殿全焼、その時、町全体が焼失、氏子による社の再宮が不可能となり祀職家にて同年本殿を再建。現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月の竣功であります。次いで平成十二年には参集殿が竣功いたしました。
新編武蔵風土記稿による行田八幡神社の由緒
町中(八幡町)総鎮守の為、明暦年中鎮座すと云。城内諏訪社(諏訪神社)神主高木長門兼帯持。
行田八幡神社所蔵の文化財
- 「神功皇后三韓征伐凱旋之図」納額(行田市指定文化財)
行田八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)