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忍諏訪神社。行田市本丸の神社

忍諏訪神社の概要

忍諏訪神社は、行田市本丸にある諏訪神社です。忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられます。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したといいます。

忍諏訪神社
忍諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方命、八坂刀売命
相殿 -
境内社 多度社、一目蓮社、科斗社、八幡社、久伊豆社、荒神社、春道稲荷大明神、神明社、、二の丸稲荷大明神、天神社、両棟稲荷大明神
祭日 例祭7月26・27日、多度社・一目蓮社例祭5月5日
住所 行田市本丸12-5
備考 行田総鎮守



忍諏訪神社の由緒

忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられます。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したといいます。

新編武蔵風土記稿による忍諏訪神社の由緒

諏訪郭にあり、当城鎮護の神にして、寛文12年の鎮座と云。神主高木長門は、京吉田家の配下なり。先祖天文年中より長野村神明社地に住せしが、寛文12年城下町に移り、当社の神職となれりと云。

境内掲示による忍諏訪神社の由緒

当社の鎮座したのは、82代後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又「持田村誌」 には、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文12年(1672) 拝殿を新たに建立した。現在の社殿は昭和36年の造営である。
文政6年 (1823)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、史に城内へ多度杜と一目蓮杜を勧請した。これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小両、科斗杜(風の神)・八幡杜・久伊豆社・荒神社・春遺稲荷大明神・神明杜・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社へ配祀された。(境内掲示より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による忍諏訪神社の由緒

利根川と荒川の流れによって形成された沼湿地の中にある台地上に、忍氏は館を築いていたが、成田下総守親春がこれを攻略し、この辺一帯を統一した。成田氏は延徳年間に忍城を構築し、この時、持田村の鎮守諏訪社を城鎮守として移したのが当社であると伝えている。
そのため持田村は新たに鎮守を勧請したという。現在の持田字竹ノ花の諏訪社がこれである。その後、成田氏代々の崇敬があり、城は、天正18年石田三成の水攻めにも耐えたが、やがて開城し徳川家康入国後は江戸北方の防衛拠点として親藩や譜代の大名が入った。寛永16年城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年当社の本殿を再営、寛文一二年拝殿を新たに建立した。
文政年中松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目連社を勧請した。これらは明治6年城郭取り壊しの際、当社境内に移される。また、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二ノ丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の九社も同時に当社へ合祀された。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)

境内社多度社・一目蓮社の由緒

多度社・一目蓮社
御祭神 天津彦根神、天目一固神
現在の場所より西北に200m程の所に文政6年(1823年)、松平忠堯は、伊勢国多度山より城内に勧請。当時の境内は300坪程あり、例祭(5月5日)には神楽殿で「能」が演じられたという。
忍藩は忍宝正の名があり、宝正流の能が盛んだった。
明治6年、現在地に遷座。
折雨や海上の風難、水火の災いに霊験あるとされる。(境内掲示より)


忍諏訪神社の周辺図


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