子安神社。忍城攻めに際してご神体を壺に納め土中に埋めて護った社
子安神社の概要
子安神社は、行田市下池守にある神社です。子安神社の創建年代は不詳ですが、天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられます。明治維新後村社に列格していました。
社号 | 子安神社 |
---|---|
祭神 | 木花咲哉姫命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 行田市下池守549 |
備考 | 旧下池守村鎮守、旧村社 |
子安神社の由緒
子安神社の創建年代は不詳ですが、天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられます。明治維新後村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による子安神社の由緒
(中池守村)子安明神社
村の鎮守なり。神体は1寸8分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
子育石。長さ2寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による子安神社の由緒
星川の南岸に開ける当地は、早くから水利に恵まれ、地内には条里制水田遺構もある。
口碑によれば、「名主某がこの村を母の棟に抱かれた赤子のように安らかなることを願い、子安明神を勧請して村の鎮守としたのに始まる」という。
祭神は、木花咲哉姫命であり、内陣には赤子を抱く子安観音像を安置する。また、文政五年に作られた神宝筥には柳澤源五左衛門英袁の名が記されており、中には子安玉、子安貝、子育て石が納められている。
「風土記稿」によると、天正一八年忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建てたとある。像の背に残る傷は埋める際、鍬が当たったためにできたものという。
明治四一年、字天神に鎮座していた天神社を当社境内に合祀したが、不幸が続くというので元に戻された。この天神社は氏子の島崎一家の氏神だともいわれ、北向き天神とも称している。幕末までは禅宗千光山龍池院龍光寺が同社の別当を務めていた。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
子安神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)