吾野神明社。飯能市吾野の神社

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吾野神明社。飯能市吾野の神社

吾野神明社の概要

吾野神明社は、飯能市吾野にある神社です。吾野神明社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東征に際して多くの猪行く手を阻んだため、日本武尊が天照大神に祈ったところ、猪を狩りとることができたことから、当地を猪狩と名付け、天照大神を祀ったと伝えられます。古来より三社明神社(妙見社・現我野神社)の入口を守る、境の神として信仰され、我野神社の氏子が当社の崇敬者となっているそうです。

吾野神明社
吾野神明社の概要
社号 神明社
祭神 天照皇大神
相殿 -
境内社 -
祭日 例祭7月18・19日(我野神社)
住所 飯能市吾野20-1
備考 -



吾野神明社の由緒

吾野神明社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東征に際して多くの猪行く手を阻んだため、日本武尊が天照大神に祈ったところ、猪を狩りとることができたことから、当地を猪狩と名付け、天照大神を祀ったと伝えられます。古来より三社明神社(妙見社・現我野神社)の入口を守る、境の神として信仰され、我野神社の氏子が当社の崇敬者となっているそうです。

新編武蔵風土記稿による吾野神明社の由緒

(中澤組)
神明社
村民持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による吾野神明社の由緒

神明社<飯能市坂石一二二四-二(坂石字猪狩)>
当社は大字坂石と、大字南との境に鎮座する。南の鎮守である我野神社はかつて三社大明神と称し、その鎮座地を今なお三社と呼ぶが、当社はこの三社の入口にあり、堺の守り神として祀るという。
当社の奉斎は、日本武尊の東征に由来し、次のような伝説が残されている。
日本武尊が上州から秩父をヘて当地を通った時、突然多くの猪が現れ、尊の行く手を妨げた。その時、尊が天照大神に祈ったところ、神の加護を得、難なく猪を狩り取った。これを感謝した尊は、天照大神を祀り、供として連れていた一六人の姫が感謝の舞を奉納した。このため、当社鎮座地の地名を猪狩と呼び、また、一六人の姫が舞った所を一六舞と呼ぶという。
当社の境内は、大木の茂る山中にあり、参道入口から社殿まで、急な石段が続いている。本殿は神明造りで、内陣には白幣が納められている。この本殿は、棟札によれば文久三年一一月に再建されたもので、明治四〇年九月にはさらに覆屋と拝殿が新築され、現在に至っている。
当地の旧家である富沢家は代々社家として当社に奉仕し、文久年間の棟札にも社主として同家の名が見えるが、明治の中期から、我野神社社家の朝日家が当社の祀職を兼ねるようになっている。(「埼玉の神社」より)

飯能市史資料編による吾野神明社の由緒

創建年月日は、はっきりしないが、神社誌によれば、伝承として、景行天皇の皇子日本武尊が東征のため、この地を通過の時、山猪が多く出没したので、尊は天照大神を勧請して猪狩りをされたと記し、堂舎の再建については、「文久三年癸亥十一月吉日再建 社主 禰宜 富沢正喜」の棟札のあることをあげている。(飯能市史資料編より)


吾野神明社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」