芦苅場赤城神社。飯能市芦苅場の神社
芦苅場赤城神社の概要
芦苅場赤城神社は、飯能市芦苅場にある神社です。芦苅場赤城神社の創建年代等は不詳ながら、天文2年(1533)当地に再建されたといいます。神社裏手にあった福泉寺が当初別当を務めていましたが、福泉寺が廃寺となった後は長徳寺が別当寺を務め、江戸期には芦苅場の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し、明治5年に村社に列格、明治40年(長徳寺境内に祀られていた)三島社、久保の稲荷神社を合祀しています。
社号 | 赤城神社 |
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祭神 | 豊城入彦命 |
相殿 | 大山祇命、倉稲魂命、事代主命 |
境内社 | - |
祭日 | 春祭4月15日、秋祭11月23日、例祭10月17日 |
住所 | 飯能市芦苅場381 |
備考 | - |
芦苅場赤城神社の由緒
芦苅場赤城神社の創建年代等は不詳ながら、天文2年(1533)当地に再建されたといいます。神社裏手にあった福泉寺が当初別当を務めていましたが、福泉寺が廃寺となった後は長徳寺が別当寺を務め、江戸期には芦苅場の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し、明治5年に村社に列格、明治40年(長徳寺境内に祀られていた)三島社、久保の稲荷神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による芦苅場赤城神社の由緒
(蘆苅場村)
赤城社
村の鎮守なり、もとは本山修験、福泉寺の持なりしが、彼寺廃せしのちは、長徳寺の持となれり、
諏訪社、稲荷社
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愛宕社
村持下同
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天神社
永昌寺の持
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長徳寺
彌勒山と號す、本山修驗、篠井觀音堂配下にして、じび村を草創せしより、今永福寺の本尊彌勒佛は此寺に傳来せしが、永昌寺を建立して本尊とせしかば、山號をも同すといへり、今不動を本尊として安置せり、
三島社
金毘羅社。社後に橿一株、かこひ一丈三尺許なるあり、
地蔵堂。地蔵は木の立像長一尺、貞澄作と云、
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福泉寺
赤城山と號す、本山修驗、篠井觀音堂配下、今は廢寺となれり、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による芦苅場赤城神社の由緒
赤城神社<飯能市芦刈場三八一(芦刈場字後野)>
芦刈場の地は市の東部に当たり、区域の北部・南部は台地状となり、中央部の低地に集落がある。この地域の村落は古くから水の便が悪いため鯉ヶ久保池(市史跡)を作り近隣七カ村の灌漑用とした。これは今も五〇ヘクタールの水田を潤す重要な役割を果たしている。
当地の北方には上毛三山の一つ赤城山の姿を望むことができ、社頭にぬかずけば赤城の本社を参拝したのと同様な御利益があるという。社伝によると、天文二年に社殿が再建されたとし、赤城信仰の古さを物語る。別当は当初本山派修験赤城山福泉寺が務めたが、廃寺になったため、その後を同派弥勒山長徳寺が継ぎ神仏分離まで続いた。なお、神社裏手の地を福泉寺と呼び現在は畑地となっている。
明治五年に村社となり、同四〇年には字堂の根の三島神社、久保の稲荷神社の二社を本殿内に合祀した。主祭神は豊伎入日子命、合祀神は倉稲魂命・事代主命である。
覆屋に納められている本殿は一間社流造り見世棚で、頭貫中央に赤城大明神の神使と伝えられる百足を彫刻しただけの簡素な造りである。なお、氏子の間では百足をいじめてはならないとの禁忌がある。(「埼玉の神社」より)
飯能市史資料編による芦苅場赤城神社の由緒
創建年月日は、はっきりしない。新風記にも明細帳にも記されていない。
境内に通称蚕影さまの祠堂がある。報告者の話によると、養蚕の盛んな頃はお祭りも盛んだったという。(飯能市史資料編より)
芦苅場赤城神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」