吾那神社。平戸字熊野平の嶺に熊野社を勧請
吾那神社の概要
吾那神社は、飯能市虎秀にある神社です。吾那神社の創建年代等は不詳ながら、熊野社と称し平戸字熊野平の嶺に鎮座、寛正年間(1460-1465)当地へ遷座したといいます。徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)社領9石の御朱印状を受領、平戸・虎秀の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治44年平戸の地神社、虎秀内の6社を合祀、大正4年に大字白子村社白鬚神社を合祀し吾那神社と改称しています。
社号 | 吾那神社 |
---|---|
祭神 | 伊邪那岐命、伊邪那美命、事解男命、埴山姫命、倉稲魂命、譽田別命、菊理姫命、速玉男命、菅原道真、大山祇命、猿田彦命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社 |
祭日 | 例大祭10月体育の日 |
住所 | 飯能市大字虎秀10-1 |
備考 | - |
吾那神社の由緒
吾那神社の創建年代等は不詳ながら、熊野社と称し平戸字熊野平の嶺に鎮座、寛正年間(1460-1465)当地へ遷座したといいます。徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)社領9石の御朱印状を受領、平戸・虎秀の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治44年平戸の地神社、虎秀内の6社を合祀、大正4年に大字白子村社白鬚神社を合祀し吾那神社と改称しています。
新編武蔵風土記稿による吾那神社の由緒
(虎秀村)
熊野社
天正十九年社領九石の御朱印を附せらる、當村及び平戸村の鎮守なり、例祭九月十九日、東明寺の持なり、
東明寺
東映山一條院と號す、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末なり、本尊彌陀を安ず、
薬師堂
(白子村)
白髭神社
村の鎮守とす、例祭六月十五日なり、永禄七年當社造營の棟札に、大石孫二郎殿百姓衆とあり、外に刀一振を社寶とす、長三尺三寸、無銘、これは中山勘解由が家臣加治某、八王子城落去の時帶せし刀なり、小瀬戸村の民長十郎が先祖某、當社に奉納せしと云、長十郎は加治氏なり、神職蘭幕加賀吉田家の配下、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による吾那神社の由緒
吾那神社<飯能市虎秀一〇-一(虎秀字小山)>
「筏のりのりためたるお金、千住一夜でちゃちゃむちゃに」と吾野小唄に歌われるように、当地は西川材で繁栄した所である。
当地の開発は高麗郡の設置時をあまり下らないと思われ、旧家であり当社の社家である蘭幕家の屋敷神社の神体は、白髭明神を刻んだ半分焼失した古い板である。
当社は、もと平戸村及び当所を眼下にする海抜三〇〇メートルの字熊野平の嶺に鎮座していた。ここに現在礎石三箇を残していて、社伝によると寛正年中現在地に移すという。『風土記稿』に「熊野社 天正十九年社領九石の御朱印を附せらる、当村(虎秀村)及び平戸村の鎮守なり、例祭九月十九日、東明寺の持なり」とあり、東明寺は真言宗で東映山一条院と号していた。
明治五年に村社となり、同四四年には隻地の地神社、落合の稲荷神社、田中の八幡神社、橋本の白山神社、小菅の山神社、中居の白山神社、市場の天満神社を合祀する。更に大正四年には白子の村社白髭神社を合祀し、社号熊野神社を吾那神社に改めた。
昭和四五年に覆屋を改築し、本来、伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三神を隅木入春日造三社に祀っていたものを二社とし、一社に伊邪那美命と白髭大神、一社に速玉男命と事解男命を奉斎した。
現在、合祀跡地等を含め山林五反歩を所有している。(「埼玉の神社」より)
飯能市史資料編による吾那神社の由緒
創建年月日は、はっきりしないが、新風記 神社誌 明細帳等によれば、虎秀、平戸村の鎮守であった熊野社がその前身で、平戸字熊野平の嶺に鎮座した当熊野神社を寛正年間(1460~1465)に現地へ遷座した。
明治5年村社に列し、同44年3月28日、下記7社を合祀した。
大字平戸字隻地 無格社地神社
大字虎秀字落合 同稲荷神社
大字虎秀字田中 同八幡神社
大字虎秀字橋本 同白山神社
大字虎秀字小菅 同山神社
大字虎秀字中居 同白山神社
大字虎秀字市場 同天満神社
大正4年、大字白子村社、白鬚神社を合祀して、吾那神社と改称した。(飯能市史資料編より)
吾那神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」