坂石町分天神社。諸国に左遷された菅原道真一族ゆかりの地
坂石町分天神社の概要
坂石町分天神社は、飯能市坂石町分にある神社です。坂石町分天神社は、延喜元年(901)に菅原道真が左遷された際、その一族も諸国に左遷され、当地に左遷されたその一人が、京に戻る際に別離の形見として置き残した筆と硯を神體として小祠を建てて創祀したといいます(以上吾野天神社と同様の伝承)。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿には、「天徳元年(957)」銘の棟札が残されていたとされ、天徳元年(957)の社殿造営が推定されます。明治7年村社に列格、現在は栃野谷・南山下(南元組)の鎮守として祀られています。
社号 | 天神社 |
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祭神 | 菅原道真 |
相殿 | - |
境内社 | 白山社、山神社 |
祭日 | 天神様の待4月29日 |
住所 | 飯能市大字坂石町分451-1 |
備考 | - |
坂石町分天神社の由緒
坂石町分天神社は、延喜元年(901)に菅原道真が左遷された際、その一族も諸国に左遷され、当地に左遷されたその一人が、京に戻る際に別離の形見として置き残した筆と硯を神體として小祠を建てて創祀したといいます(以上吾野天神社と同様の伝承)。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿には、「天徳元年(957)」銘の棟札が残されていたとされ、天徳元年(957)の社殿造営が推定されます。明治7年村社に列格、現在は栃野谷・南山下(南元組)の鎮守として祀られています。
新編武蔵風土記稿による坂石町分天神社の由緒
(中澤組)
天神社
神體束帶せる木坐像長八寸五分、古色に見ゆ、村内の鎮守なり、例祭二月廿五日、除地六畝四歩、神職平沼河内吉田家の配下なり
木貌二軀。長八寸許、社内に置く、名工の作と見ゆ、土人は左甚五郎が作といへど肯がたき説なり、棟札あり左に出す
(棟札銘文)
丁天徳元年 武州秩父郡 小野員家
奉建立天神宮 神主沼刑部大輔
已二月廿日 氏子上中中澤村上谷萱村
(表)
同舎弟鶴房丸龜房丸禄位伏専壽算保龜鶴之甲子貌容等
奉賀當山大檀那小野員忠本願平沼兵衛次郎重政同源六重宗専子孫之壽算更無
椿松之春秋會爲佛法金湯永爲王道柱石矣六百四十歳以後造榮見之者也
(裏面省略 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による坂石町分天神社の由緒
天神社<飯能市南八三七-ロ(南字横井場)>
当地は、外秩父山地の南、高麗川が縫うように流れる谷あいで、当社は南の集落を見渡す所に鎮座する。
当社に現存する棟札は、明治二五年二月の上屋と鳥居の再建棟札、昭和八年五月の本殿修繕棟札の二枚である。
しかし、『風土記稿』によると、天徳元年二月建立の棟札、像長八寸五分の束帯座像神体、左甚五郎の作と伝えられる木猊(狛犬)二体があったことを記しているが、そのいずれも現存しない。
現在は昭和八年の本殿修繕の折に奉納された神鏡と、昭和二五年に奉納された菅原道真公座像を内陣に祀り、本殿は一間社流造りである。
社殿脇には、当初が山林業に従事するものが多いことから大山祗命を祀る山神社並びに、以前、参道石段わきにあったがいつしか朽ちて無くなり忘れられていた白山社が近年石宮に復興されて、祀られる。
祀職は『風土記稿』に「神職平沼河内吉田家の配下なり」とあるが、平沼家がいつまで祀職を務めていたかは不明である。明治中期より我野神社社家朝日昇により兼務され、以後、茂、津守の三代にわたり奉仕されている。(「埼玉の神社」より)
飯能市史資料編による坂石町分天神社の由緒
創建年月日は、はっきりしない。神社誌によれば、菅公筑紫へ左遷の際は、その子孫この地へ居住したが、のち許されて菅公帰京の時、
その子孫も菅公記念の筆をこの地にいけて帰京したとの言い伝えがあり、その後、建久年間(1190-1198)に、村人が祠を建て天神社と称し鎮守としたという。
明治7年村社に列した。(飯能市史資料編より)
坂石町分天神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」