熊井毛呂神社。鳩山町指定無形文化財の毛呂神社屋台囃子
熊井毛呂神社の概要
熊井毛呂神社は、比企郡鳩山町熊井にある神社です。熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定されます。境内社八坂神社は、群馬県世良田の八坂神社を勧請したもので、7月の例大祭で奉納される毛呂神社屋台囃子は、鳩山町無形文化財に指定されています。
社号 | 毛呂神社 |
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祭神 | 大己貴命、天之穂日命 |
相殿 | 大山咋命、山神 |
境内社 | 諏訪八幡神社、八坂神社、天神宮、稲荷社 |
祭日 | 天王様7月第3土日曜日 |
住所 | 比企郡鳩山町熊井1742 |
備考 | - |
熊井毛呂神社の由緒
熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定されます。下熊井地区の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年(西福寺が別当を務めていた)日枝神社・山神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による熊井毛呂神社の由緒
(熊井村)
毛呂明神社
村の産神なり、同寺(西福寺持)の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による熊井毛呂神社の由緒
毛呂神社<鳩山町熊井一七四二(熊井字向山)>
当地は、岩殿丘陵の南西部に位置し、中央部を鳩川が流れる。中央南部の丘陵上に鎮座するのが当社である。一帯は、大久保加賀守配下の小鷹玄播が松山城落城後に帰農して開いたとされる。平地が少ないため、当時は丘陵斜面を利用した焼畑耕作が主で、水田に転作する際には、最も良さそうな地を開いて平地に居住し始め、村として形を整えた。旧名主家の小鷹進家の伝えでは、先祖が名主になったのは玄幡の帰農後、比較的早かったというから江戸初期であろうか。
当社の創建は、入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命の分霊を勧請したことによると伝える。別当の西福寺が元様八年(一六九五)と文化元年(一八〇四) の二度にわたり火災に遭い焼失したため、旧記・記録類が残っておらず、詳細は不明である。『風土記稿』熊井村の項に、「毛呂明神社 村の産神なり」と記されるのみである。西福寺は、開山の堯栄が慶長年間(一五九六-一六一五)の示寂と伝える真言宗の寺院である。
明治四十年四月に、日枝神社と山神社を合祀した。日枝社は『風土記稿』に「山王社 慶安二年(一六四九)社領七石の御朱印を附せらる」と記され、地内では大きな社であった。合祀後、空になった同社の社殿は社務所に利用されている。ただし、昭和五十五年ごろに公会堂を建設してからは、祭典後の直会を公会堂で行うようになった。(「埼玉の神社」より)
熊井毛呂神社の由緒
- 毛毛呂神社屋台囃子(鳩山町指定無形文化財)
毛呂神社屋台囃子
年代は詳らかではありませんが、この屋台囃子は、悪魔退散、無病息災を願い創始されたといわれます。群馬県世良田より八坂神社を招請した後、七月の例大祭には氏子の安全と繁栄を祈願して囃子を奉納します。
囃子は、大太鼓、小太鼓、あたり鉦、笛、踊りとで構成され、踊りの種類は、「仁羽」、「屋台」、「数え唄」、「子守り唄」、「祇園囃子」、「鎌倉」、「昇殿」、「四丁目」などがあります。
現在、囃子保存会が結成され伝統芸能の継承に努めています。(鳩山町教育委員会掲示より)
熊井毛呂神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)