高野倉八幡神社。比企郡鳩山町高野倉の神社

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高野倉八幡神社。比企郡鳩山町高野倉の神社

高野倉八幡神社の概要

高野倉八幡神社は、比企郡鳩山町高野倉にある神社です。高野倉八幡神社の創建年代等は不詳ながら、社記では仁寿元年(851)の創建と伝えています。明治維新前までは十羅刹女明神・鬼子母神などと称し、正圓寺の境内として当社は扱われていました。境内に残された御神木はイチイガシは、九州地方に多く分布、埼玉県には皆無であることから人工的に植樹されたものと思われ、樹齢600年とも伝えられることから、創祀年代もその頃ではないかとも推測されています。八幡神社と改称した理由などは不詳ながら、明治維新後には八幡神社と称し明治5年村社に列格、明治40年字花ノ木の無格社厳島神社と、末社稲荷神社・愛宕神社を合祀しています。

高野倉八幡神社
高野倉八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 日本武尊
相殿 -
境内社 厳島神社、天神社、御嶽神社、天手長男社
祭日 春祭り2月15日、秋祭り10月17日(前後の日曜日)
住所 比企郡鳩山町高野倉454
備考 -



高野倉八幡神社の由緒

高野倉八幡神社の創建年代等は不詳ながら、社記では仁寿元年(851)の創建と伝えています。明治維新前までは十羅刹女明神・鬼子母神などと称し、正圓寺の境内として当社は扱われていました。境内に残された御神木はイチイガシは、九州地方に多く分布、埼玉県には皆無であることから人工的に植樹されたものと思われ、樹齢600年とも伝えられることから、創祀年代もその頃ではないかとも推測されています。八幡神社と改称した理由などは不詳ながら、明治維新後には八幡神社と称し明治5年村社に列格、明治40年字花ノ木の無格社厳島神社と、末社稲荷神社・愛宕神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による高野倉八幡神社の由緒

(高野倉村)
正圓寺
新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺門徒にて、無量山と號す、本尊地蔵を安ず、開山光賢天正元年示寂と云傳ふ、
鬼子母神社
阿彌陀堂(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による高野倉八幡神社の由緒

八幡神社<鳩山町高野倉四五四(高野倉字母貫)>
高野倉は、地内中央部を流れる鳩川の両岸に水田が、三方を囲む丘陵部には畑が細長く広がる農業地域である。ゴルフ場の開発も盛んで西部の丘陵には越生ゴルフクラブ、南部の丘陵には日本カントリークラブのゴルフ場がある。当社は、この高野倉の鎮守として北部の丘陵斜面に祀られている。
こうした立地のため、参道は坂道になっており、その入口には樹齢約六〇〇年と伝えられる神木の椎(町指定天然記念物)が大きく枝を広げている。この参道は、昔の街道の峠道を思わせるような零囲気をもっているため、しばしば時代物の映画の撮影の場に使われており、平成三年にも丹波哲郎や松方弘樹、朝丘雪路らが来たという。
社記によれば、当社は仁寿元年(八五一)の創祀といい、全体に中国の伝説を題材にした彫刻が施された一間社流造り柿葺きの壮麗な本殿を持つ。この本殿は背から「高野倉には過ぎたるもの」といわれるほど立派なもので、単に壮麗なばかりではなく、昔宮大工をしていたという古老が見ても「これほどの欅はほかに見たことがない」というほど建材の欅の質が良く、幾歳月を経ても寸分の狂いもない。
『風土記稿』にはなぜか当社の記載はないが、明治五年には村社になり、同四十年には字花ノ木の無格社厳島神社を境内に合祀、当社の末社であった稲荷神社と愛宕神社を本殿に合祀した。(「埼玉の神社」より)

「近世鳩山図誌」による高野倉八幡神社の由緒

高野倉の鬼子母神社(現八幡神社)旧参道入口左手には町指定天然記念物「八幡神社のイチイガシ」が聳え立っている。幹回り五メートルを測り、樹齢約六百年を数えると言われる大木である。このイチイガシは、温暖性植物でその分布の中心は、九州や四国、紀伊半島などの暖かい地方に分布の中心があり、高野倉の例は、自生北限をはるかに超えた、関東地方でも房総安房を除くとほとんど例のないと言われる、たいへん貴重な樹木である。
事実、静岡県では、伊豆修善寺に隣接する(寺院付属社とも言うべき)日枝神社境内にあるご神木イチイガシを県指定天然記念物として保護している。人口植樹以外に考えがたいイチイガシが、何故、高野倉の鬼子母神社に存在しているのか、その歴史的背景が注目される。ところで伊豆修善寺は、鎌倉幕府二代将軍源頼家自刃の地として知られている寺院だが、源頼家は、比企能員の女(若狭局)との間に一幡をもうけたように比企地方を代表する比企一族とは大変深い関係にあった将軍であった。
伊豆修善寺の日枝神社にイチイガシが植えられた理由が分明でないし、源頼家との係わりも定かでない。しかし、イチイガシの植樹は、伊豆修善寺の日枝神社がそうであったように、地域の歴史に大きく係わる歴史的背景を背負ったものであると言える。このことは高野倉の鬼子母神社の由緒にも深く関わることであり、改めて、その創建事情が注目される。しかし、多くの神社がそうであるように、その由緒は明らかでない。今は、一人イチイガシが知るのみというべきか。ここで使う鬼子母神社は江戸時代後期の『新記』によるものである。これが八幡神社の前身名であることは、八幡神社に多くの絵馬が奉納されていることからも理解できるが、ただし創建時の寺名であるかは不明である。因みに江戸前・中期は十羅刹女明神のようである。(「近世鳩山図誌」より)


高野倉八幡神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
  • 「近世鳩山図誌」