正圓寺阿弥陀堂。比企郡鳩山町高野倉にある寺院

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正圓寺阿弥陀堂。八十八か所巡拝供養塔・百地蔵尊・大黒天

正圓寺阿弥陀堂の概要

寺院の正圓寺阿弥陀堂は、無量山正圓寺と号していた寺院の阿弥陀堂です。正圓寺阿弥陀堂の創建年代等は不詳ながら、明治維新により廃寺となった正圓寺持の阿弥陀堂です。正圓寺の創建年代等は不詳ながら、光賢(天正元年1573年寂)が無量山正圓寺と号する新義真言宗寺院として開山、本堂は八幡神社麓の集落センター付近にあったといいます。境内に鬼子母神社(現八幡神社)、当阿弥陀堂を擁していました。隣接する共同墓地のある堂山は、高野倉村の名主山崎家の所有していた地で、明治維新後に寡婦となった山崎ひで女が、祖先の菩提を弔いながら神仏の加護を得るため、八十八か所巡拝供養塔や百地蔵尊、大師堂、大黒天を建立したもので、山崎家は養子を迎えて無事存続できたとのことです。(大師堂は平成16年に取り壊されています)

正圓寺阿弥陀堂本堂
正圓寺阿弥陀堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
本尊 阿弥陀如来像
住所 比企郡鳩山町高野倉・高野倉自然ふれあい公園
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



正圓寺阿弥陀堂の縁起

正圓寺阿弥陀堂の創建年代等は不詳ながら、明治維新により廃寺となった正圓寺持の阿弥陀堂です。正圓寺の創建年代等は不詳ながら、光賢(天正元年1573年寂)が無量山正圓寺(性圓寺)と号する新義真言宗寺院として開山、本堂は八幡神社麓の集落センター付近にあったといいます。境内に鬼子母神社(現八幡神社)、当阿弥陀堂を擁していました。隣接する共同墓地のある堂山は、高野倉村の名主山崎家の所有していた地で、明治維新後に寡婦となった山崎ひで女が、祖先の菩提を弔いながら神仏の加護を得るため、八十八か所巡拝供養塔や百地蔵尊、大師堂、大黒天を建立したもので、山崎家は養子を迎えて無事存続できたとのことです。(大師堂は平成16年に取り壊されています)

「近世鳩山図誌」による正圓寺阿弥陀堂の縁起

正円寺は、高野倉の現八幡神社である鬼子母神社(江戸前・中期には左掲史料1によれば「十羅刹女明神」)参道脇に小平場を削り出して建立される。前面には板碑の出土するお堂山があり、向山麓には現在阿弥陀堂一宇が建っている。『新記』所載の正円寺諸堂の阿弥陀堂であろうか。正円寺とは小谷を挟んで対峙する。正円寺本尊は地蔵菩薩であるが、お堂山は中世墓でもある可能性が高く、亡者救済の墓辺寺的性格が認められなくもないが、立地的には現阿弥陀堂がその役を担うに相応しく、また正円寺の開山も『新記』では戦国時代に下る。
差上申所証文之事
武蔵国入間郡今市村報恩寺門徒
一、武州玉川領高野倉村真言宗性圓寺、此寺之儀ハ何百年以前之儀二御座候哉委細不存候、然共当時先師光賢阿闇利と申住寺(住持)、天正元年二相果候住寺御座候、其已後ハ段々住寺有来リ申し候、新地二而者無御座候、
一、同村十羅剥女明神 別当性園寺
此社之儀ハ、右之先師光賢以来之儀ハ段々当寺二而別当仕来り申候、其以前、何百年ニ御座候哉委細存不申候、新地、ニ而者無御座候、
右之通り今度御改被遊候二付、当村之寺社吟味仕書上申し候、少も相違無御座候、此外新地之寺社一切無御座候、若シ相違之儀御座候ハ、名主・組頭いか様之曲度にも可被仰付候、為証文差上申候仍如件
玉川領高野倉村 名主庄兵衛(「近世鳩山図誌」より)

新編武蔵風土記稿による正圓寺阿弥陀堂の縁起

(高野倉村)
正圓寺
新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺門徒にて、無量山と號す、本尊地蔵を安ず、開山光賢天正元年示寂と云傳ふ、
鬼子母神社
阿彌陀堂(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による正圓寺阿弥陀堂の縁起

八幡神社<鳩山町高野倉四五四(高野倉字母貫)>
神社の北西の丘陵は、高野倉の共同墓地になっている。ここには、墓石ばかりでなく、霊場八十八か所巡拝供養塔や百地蔵尊などの石造物も立てられており、公園のような趣がある。高野倉では、春秋の彼岸には名前を書いた祈願札を百地蔵尊に貼り付けていく風習があり、かつては住民がこぞって行っていたため、彼岸が終わると地蔵の頭には祈願札が帽子のように厚く重なっており、子供たちはそれを外しかぶって遊んだものであったが、近年では、その祈願札も数えるほどしか貼られなくなった。(「埼玉の神社」より)


正圓寺阿弥陀堂の周辺図


参考資料

  • 「近世鳩山図誌」
  • 新編武蔵風土記稿