瑠璃光院。比企郡鳩山町須江にあった寺院
瑠璃光院の概要
寺院の瑠璃光院は、須江山光雲寺宮本坊と号していた。瑠璃光院の創建年代等は不詳ながら、舛井戸遺跡は瑠璃光院(日の出薬師)の御手洗井戸として寛徳年間(1044-1046)に建設されたと伝えられることから、日の出薬師は平安時代末期の寛徳年間には既に祀られていたとされます。江戸期には須江山光雲寺宮本坊と号す本山派修験寺院でしたが、明治維新に際し修験宗は廃宗となり、当寺も廃寺となり、日の出薬師尊は長命寺へ遷され、薬師堂は医王社と名を変え、黒石神社に合祀され、跡地は五輪塔・板碑を含む墓地となっています。
山号 | 須江山 |
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院号 | 瑠璃光院 |
寺号 | - |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 比企郡鳩山町須江 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
瑠璃光院の縁起
瑠璃光院の創建年代等は不詳ながら、舛井戸遺跡は瑠璃光院(日の出薬師)の御手洗井戸として寛徳年間(1044-1046)に建設されたと伝えられることから、日の出薬師は平安時代末期の寛徳年間には既に祀られていたとされます。江戸期には須江山光雲寺宮本坊と号す本山派修験寺院でしたが、明治維新に際し修験宗は廃宗となり、当寺も廃寺となり、日の出薬師尊は長命寺へ遷され、薬師堂は医王社と名を変え、黒石神社に合祀され、跡地は五輪塔・板碑を含む墓地となっています。
「近世鳩山図誌」による瑠璃光院の縁起
瑠璃光院跡近傍墓地には、五輪塔や板碑が立っている。また上掲「舛井戸遺跡」(町指定史跡)は、伝承によれば、同所背後の丘陵上(瑠璃光院跡にほぼ同じ)に祀っていたという寛徳年間(一〇四四-四六)に遡る日の出薬師尊の御手洗である。この宗教的環境は、近世期にも引き継がれ、須江村のなかで同院および黒石明神社(瑠璃光院持)を中心に、檀那寺である長命寺とは異なる独自な宗教的空間を同村内に形成していたものと思われる。(「近世鳩山図誌」より)
新編武蔵風土記稿による瑠璃光院の縁起
(須江村)
瑠璃光院
本山派修験、入間郡西戸村山本坊の配下、須江山光雲寺宮本坊と號す、本尊不動を安ず、
薬師堂(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による瑠璃光院の縁起
黒石神社<鳩山町須江四一二(須江字升井戸)>
なお、『風土記稿』須江村の項には、「黒石明神社村の鎮守なり、瑠璃光院持」とあり、その瑠璃光院については、本山派修験の須江山光雲寺宮本坊と号し、薬師堂があったと記載されている。明治初年の神仏分離以降太平洋戦争前までは、地元の日野岡家が代々当社の祀職を務め、同家が本山派修験の流れを汲み、永く当社を守り続けたという。
古くは境内地に医王社があったが、明治四十四年四月、境内末社の愛宕社とともに本殿に合祀した。医王社はもともと瑠璃光院の薬師堂であったと思われるが、氏子たちは医王社の少彦名命を当社に祭神として祀る一方で、本尊であった薬師如来への崇敬も捨て難く、近くの長命寺に薬師像を遷し奉安したという。
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なお、当社境内地近くには旧薬王院と深い関連がうかがわれる御手洗池跡が残っている。枡井戸遺跡と呼ばれる池跡は、口碑によれば、薬師様を参詣する信徒の御手洗井戸として設けられて以来、今日に至るまで渇水することなく清泉が湧き出ており、かつては氏子が伊勢神宮や黒石神社参拝の折に身体の穢を清めたり、干ばつ時の飲料水としても用いられていた。(「埼玉の神社」より)
瑠璃光院の周辺図
参考資料
- 「近世鳩山図誌」
- 新編武蔵風土記稿