多福寺。三芳町上富にある臨済宗妙心寺派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

三富山多福寺。川越藩主柳沢吉保が創建

多福寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の多福寺は、三富山と号します。多福寺は、元禄7年(1694)に川越藩主となった柳沢吉保が武蔵野の開発に着手、開発した三富新田(上富・中富・下富)の菩提寺として元禄9年(1696)に創建したといいます。境内の「元禄の井戸」は、開発当時に上富に掘られた四基の井戸の一基で、現存する唯一の井戸だそうです。関東百八地蔵霊場8番、また、木ノ宮地蔵堂は当寺境内仏堂です。また、当寺の山門は野火止平林寺山口勝光寺とともに美しい楼門造りです。

多福寺
多福寺の概要
山号 三富山
院号 -
寺号 多福寺
住所 入間郡三芳町上富1542
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



多福寺の縁起

多福寺は、元禄7年(1694)に川越藩主となった柳沢吉保が武蔵野の開発に着手、開発した三富新田(上富・中富・下富)の菩提寺として元禄9年(1696)に創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による多福寺の縁起

(上富村)
多福寺
臨済宗、京都妙心寺の末、三富山と號す、元禄九年松平美濃守草創にて、開山洞天惠水は寛永七年正月十二日示寂せり、本尊は釋迦の像を安置なせり。
山門。十六羅漢の像を置り
鐘楼。鐘は元禄九年の鋳造にて、銘文あれど事實に渉らざれば載せず。
觀音堂
稲荷社
熊野社
山神社(新編武蔵風土記稿より)


多福寺の縁起

  • 多福寺銅鐘(埼玉県指定有形文化財)
  • 元禄の井戸

多福寺銅鐘

この銅鐘は、三富新田の開発を推進した柳沢出羽守吉保(のちの松平美濃守吉保)の家臣曽我権太夫貞刻が多福寺に寄進したもので、作者は江戸の鋳物師椎名伊予守藤原良寛である。元禄九年(一六九六)八月に完成した銅鐘は、多福寺に奉納され、同月六日に釣鐘供養が行われた。三富新田開拓の様子を書き記した「武蔵野古来訳之事」によると、この供養では多福寺の開山洞天和尚が最初に鐘をつき、続いて二世虎峰和尚が、三番目に曽根権太夫が鐘をついたことが知られる。
銅鐘には、「三富山多福禅寺鐘銘幷序」と題される銘文が刻み込まれている。銘文の前半は曽根権太夫が書いたもので、自分が三富開拓に尽力したいきさつ、多福寺建立の意味づけが、後半は多福寺の開山洞天和尚が書いたもので、柳沢吉保の功績、銅鐘鋳造の経緯などが記されており、歴史資料としても重要なものといえる。
多福寺銅鐘は、江戸時代元禄期に多くみられる均整のとれた優美な姿をみせ、開拓当時のおもかげを残す多福寺境内にあって、その歴史とともに貴重なものである。(埼玉県・三芳町教育委員会掲示より)

元禄の井戸

元禄の井戸とは、上富に、元禄時代(一六八八~一七〇三)に掘られた井戸のことである。当時、川越城主であった、柳沢美濃守吉保が、重臣であった曽根権太夫貞刻に命じて、三富(上富、中富、下富)の開拓をおこなった。
開拓の時、一番大きな問題とされたのが、飲用水であったという。そこで、柳沢吉保は、上富地区に四ヶ所の井戸を掘ったが、完全には水は出ず、真夏の時などは、竹間沢村の下を長れる柳瀬川などから、水を桶に入れて運び、それで生活していたことも幾度もあったという。
現在、当時に掘られた井戸で、今日も残されているものとしては、多福寺境内にあるのみで、ほとんどが、くずれたり、うめたりして見られなくなってしまった。
多福寺の井戸は、当時”甘露水”と呼ばれ、人々ののどをうるおした。(境内掲示より)

多福寺の周辺図