春日部稲荷神社。春日部実景が勧請、春日部氏の屋敷稲荷
春日部稲荷神社の概要
春日部稲荷神社は、春日部市粕壁にある稲荷神社です。春日部稲荷神社は、寛元年間(1243-1247)に春日部実景が当所に住居した際に伏見稲荷を勧請、春日部氏の屋敷稲荷だったことから「春日部稲荷」と呼称されてきたといいます。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 須佐之男命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 7月中旬の土日曜日 |
住所 | 春日部市粕壁5609 |
備考 | - |
春日部稲荷神社の由緒
春日部稲荷神社は、寛元年間(1243-1247)に春日部実景が当所に住居した際に伏見稲荷を勧請、春日部氏の屋敷稲荷だったことから「春日部稲荷」と呼称されてきたといいます。
新編武蔵風土記稿による春日部稲荷神社の由緒
(埼玉郡粕壁宿)
稲荷社
眞蔵院持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による春日部稲荷神社の由緒
稲荷神社<春日部市粕壁五六〇九(粕壁町字浜川戸)>
「春日部」という地名は、古代にさかのぼることを証す史料はないものの、皇室所有の部民を指す名代・子代の一種である春日部に由来するであろうことは想像に難くない。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、当地に居住してこの在名を名乗った豪族に春日部氏がいる。この春日部氏からは、文治元年(一一八五)に壇ノ浦の戦いに従った実高、宝治元年(一二四七)の宝治合戦で三浦泰村に味方して泰村と共に討ち死にした実景、元弘三年(一三三三)に挙兵した新田義貞の鎌倉攻めに従って武功を上げた重行、延元年間(一三三六-四〇)に新田義貞に従ってしばしば武功を挙げた時賢などが出ており、その活躍は『吾妻鏡』にも記されている。当社に隣接する八幡神社は、時賢が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられ、当社はその館跡とされている小丘の上に鎮座している。
一方、社伝によれば、当社は寛元年間(一二四三-四七)に実景が当所に住居した時に京都の伏見稲荷を勧請したことに始まり、「春日部稲荷」の呼称は春日部氏の屋敷神であったことにちなむものであるという。無格社であったにもかかわらず当社が明治末期に合祀の対象とされなかったのも、こうした由緒が尊重されたためと考えられ、明治中期に社殿が焼失した際も、すぐに復興が果たされた。(「埼玉の神社」より)
春日部稲荷神社の周辺図