春日部八幡神社。春日部市粕壁の神社

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春日部八幡神社。春日部治部少輔時賢が勧請、粕壁宿の鎮守

春日部八幡神社の概要

春日部八幡神社は、春日部市粕壁にある八幡神社です。春日部八幡神社は、元弘年間(1331-1334)に新田左中将義貞の家臣、(紀氏)春日部治部少輔時賢が当地を領有、春日部治部少輔時賢の館に鶴岡八幡宮を勧請して創建したといいます。室町時代には新方領四十余郷の総鎮守として、江戸期には粕壁宿の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年郷社に列格していました。

春日部八幡神社
春日部八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別尊
相殿 息長足姫尊、(紀氏の祖)武内宿祢命、豊受姫命
境内社 鹿島社、愛宕社、香取社、弁天社、天神社、氷川社、御嶽社
祭日 例大祭10月15日
住所 春日部市粕壁5597
備考 -



春日部八幡神社の由緒

春日部八幡神社は、元弘年間(1331-1334)に新田左中将義貞の家臣、(紀氏)春日部治部少輔時賢が当地を領有、春日部治部少輔時賢の館に鶴岡八幡宮を勧請して創建したといいます。室町時代には新方領四十余郷の総鎮守として、江戸期には粕壁宿の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による春日部八幡神社の由緒

(埼玉郡粕壁宿)
八幡社
宿の鎮守なり、元禄年中別當玉蔵院住僧の書し縁起に、昔元弘年中新田左中将義貞の家臣、春日部治部少輔時賢なるもの當所を領し、多年相州鶴岡八幡を敬信し屡靈護を蒙しりゆへ、遥拝の爲則鶴岡を寫してこゝに勧請すと云、因て昔は新方の總鎮守にて、社宇荘厳を盡せしに、其後遥の星霜を歴て屡盛衰ありしが、今は又社殿備り頗る舊觀に復す、
末社辨天社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による春日部八幡神社の由緒

八幡神社<春日部市粕壁五五九七(粕壁町字浜川戸)>
春日部郷は、下総国葛飾郡下河辺庄に属した中世の郷で、戦国時代には糟壁・糟ケ辺とも表記された。当郷には紀氏系春日部氏が鎌倉時代から南北朝時代にかけて居住した。延元元年(一三三六)三月二十二日後醍醐天皇は「下河辺庄内春日部郷地頭職」を春日部滝口左衛門尉(重行)に宛てがっている(「後醍醐天皇綸旨写」武州文書)。
当社は、この春日部郷の中心地であったとみられる字浜川戸に鎮座している。当社境内の北東側の高台は春日部治部少輔時賢の館跡と伝えられており、その辺りの発掘によって見つかった浜川戸遺跡からは平安から鎌倉時代にかけての住居跡を含む館跡と思われる堀跡が発見され、春日部氏一族と関連ある遺跡と考えられている。
主宰神は誉田別尊・息長足姫命・武内宿禰命(紀氏系春日部氏の祖)・豊受姫命である。元禄七年(一六九四)の「武州春日部八幡宮略縁起」「村鏡類諸事物留書」(中島家文書)によれば、新田義貞の家臣春日部治部少輔時賢は日ごろから鶴岡八幡宮を厚く信仰し、弓馬の武運を祈っていた。元弘元年(一三三一)に、鶴岡八幡宮に参籠して祈願していたところ、満願の日の夜明けに不思議な姿形をした老翁が現れ、奇特の信心に対し加護を与えるとし、「汝の城の近辺に清浄な地があるので、彼の地に鎮座して汝の繁栄を守るであろう。よって、その土地を示す霊木を生やそう」と教示した。時賢は早速に城へ帰り、探したところ城の南の広い草地に銀杏の大樹を見つけ、この地に社殿を建立して八幡宮を勧請した。社殿の造りは、本殿と五間の拝殿を備え、更に鳥居に至るまで選び抜かれた材料で仕上げられた荘厳のものであった。それ故、新方四十余郷では、春日部八幡宮に対して憚り、五間の草屋を建てなかったという。
一方、天保十一年(一八四〇)の「春日部八幡宮氏子連名帳」によれば、春日部八幡宮は鎌倉大将軍旗下の春日部氏が居城していた所に鎮座する新方四十余郷の惣社であり、毎年六月は角力会、八月は放生会、九月は神事が執り行われていたほか、毎月一日・十五日には神楽が奉納されていた。また、昔元弘の年に鎌倉鶴岡の御神木の銀杏が社前に飛んで来て、一夜のうちに繁茂する大樹になったといわれるのが、今の社前の御神木である。大神が氏子の村々を巡幸すると言い伝えられ、神社内には黄金の轡の音を聞くことがある。霊験著しき故に万人心のよりどころとして祈願する老若は朝夕に絶えることなく、過去の永い年月、新方荘の諸村を勧進して銅灯を社前に備え、更に宝暦の年(一七五一-六四)には、四十余郷の氏子らが力を合わせ巨石の鳥居を建立した。今また村々の氏子ら、神楽を年ごとに奏して巡幸守護の神恩に報謝するためにこの氏子連名帳を作成したという。
このように当社は春日部治部少輔時賢が元弘元年ごろに鶴岡八幡宮を勧請し、以来新方四十余郷の総鎮守となり、更に近世には粕壁宿の鎮守としても崇敬されるようになった。一の鳥居には「新方荘総社」の額が掲げられ、石灯籠には「新方鎮守社」と刻まれている。また、本殿の裏には、桃山時代の建造とされる一間社流造りの旧本殿(市指定文化財)が安置されていた。
正徳四年(一七一四)、神祇管領吉田家から正一位に叙せられ、その時の宗源宣旨が現存する。また、文政五年(一八二二)の書上げ(「村鏡類諸事物留書」)には、正徳年中に社殿を再建した旨が記されており、神階叙位に合わせて社殿の整備を進めたことがわかる。
江戸期の別当については、先の「氏子連名帳」に「別当普門院兼帯最勝院法印照海」「別当玉蔵院法印浄順」の二人の真言宗寺院の僧の名が記されているが、実際の当社の管理は現在の社務所の辺りに居を構えていた本山派修験の仙乗院が行っていた。仙乗院は、もと梅田村にあったが、寛永九年(一六三二)に当所に引き移したという。
神仏分離を経て、当社は明治六年に郷社となり、同四十五年に字内谷の稲荷社・字大池の水神社・字金山の稲荷社の三社の無格社を合祀した。昭和五十七年には御鎮座六百五十年祭を期して神域の整備と社殿の大改修が行われた。平成七年十一月五日夕刻、放火により旧本殿が焼失したが、同八年十月一五日に「奥の院」として再興を果たした。
祀職は、神仏分離により仙乗院が復飾して松園を名乗って神職となり、同家が二代にわたり務めた後、押田由太郎が継ぎ、現在の押田豊に至る。
なお、当社の参道入口には、在原業平が武蔵国と下総国との境である隅田川の渡しで詠んだ「名にしおはば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人は ありやなしや」の歌が刻まれた「都鳥の碑」がある。(「埼玉の神社」より)


春日部八幡神社所蔵の文化財

  • 春日部八幡神社旧本殿(春日部市指定文化財)
  • 中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘(埼玉県指定天然記念物)

春日部八幡神社旧本殿

春日部八幡神社は、元弘年中(一三三一~一三三四年)に当地の領主であった春日部氏によって鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請、創建されたものといわれています。
この旧本殿は、手斧造りという特徴的な構造に当時の神社建築の様式をそのままに残していて、市内では最も古い建造物として春日部氏の動静を伝える貴重な文化財です。
また、この神社の境内を含む一帯は、春日部氏の館跡ともいわれ、奈良・平安時代から中世までの複合遺跡の浜川戸遺跡として知られています。(春日部市教育委員会・春日部市文化財調整委員会掲示より)

中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘

榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が平安~室町時代の寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘。
長さ200m、幅50mの規模え八幡神社と稲荷神社の境内にみることができる。(境内掲示より)

春日部八幡神社の周辺図