西川山真福寺。村を開拓した埜澤帯刀吉長等が開基
真福寺の概要
浄土宗寺院の真福寺は、西川山広大院と号します。真福寺は、小田原北条の役で岩槻城を守っていた埜澤帯刀吉長等が、落城後(天正18年1590年)当地に逃れて村を開拓、埜澤、千羽、久保田、伊藤、石井の五人が当寺を開基し、一蓮社宗誉源哲上人(慶長19年1614年寂)が開山したといいます。
山号 | 西川山 |
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院号 | 広大院 |
寺号 | 真福寺 |
住所 | 春日部備後東1-27-13 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真福寺の縁起
真福寺は、小田原北条の役で岩槻城を守っていた埜澤帯刀吉長等が、落城後(天正18年1590年)当地に逃れて村を開拓、埜澤、千羽、久保田、伊藤、石井の五人が当寺を開基し、一蓮社宗誉源哲上人(慶長19年1614年寂)が開山したといいます。
境内石碑による真福寺の縁起
真福寺縁起
当山は承安四年法然上人開宗の浄土宗寺院にして阿弥陀佛を本尊と、阿弥陀佛の本願による称名念仏の寺である。蓮門舎旧詞によれば、林西寺末新方領備後村西川山広大院開山一蓮社宗誉源哲上人慶長十九甲寅年十一月三日示寂行年七十八才とある。
開基は埜澤帯刀吉長慶長十二丁未年区圧十三日歿、千羽、久保田、伊藤、石井の五人であって豊臣秀吉が尾粟田浄を攻略のみぎり、天正十八年五月岩付城が淺野弾正少弼長政、木村常陸介によって包囲攻略された。
この時岩付城主太田十郎氏房は精鋭三千余を率いて小田原城へ援軍として出陣しており城内は副臣伊達與兵衛房實、妹尾兼延の率いる二千余騎が守勢となっていた。五月二十日合戦となり五月二十一日落城した。埜澤帯刀吉長は肥後国十人小西攝津守行長の家臣にして千五百石役軍先百人頭を勤めていたが天正十七年丑年関東へ下り伊達與兵衛縁者につき当城に入り城主太田氏房の随身となった。この闘いに於て搦手より攻め入られ落城に及ぶ。これがため十七人で夜半一舟に集って逃れ何国ともなく流れ行き夜明け頃山林に漂着、十七人ともども椿、かや、よし、竹の生い茂る森に山伏姿となって隠れ住み荒地を開墾し農耕を始めた。のちここに一庵一社を建てた。十七人のうち十二人は思い思いに分かれて他所へ移り住み埜澤、千羽、久保田、伊藤、石井の五人が残り庵を真福寺とし社を香取社とした。新編武蔵風土記稿には香取社、村の鎮守、真福寺持とある。
秀誉上人代明治十四年四月本堂、庫裡竣工、同十九年六月九日火災にあい堂宇悉く灰燼に帰す。翌二十年春檀家及び有志の浄財を募り再建する。大正十二年九月一日関東大震災により堂宇すべてが倒壊、その後仮堂を建て昭和十四年に至って本堂を新築する。
阿弥陀如来三尊は延宝三乙卯年三月右京の作である。境内は隣接の香取社が同一区域の中に在りしを、明治初年の廃佛毀釈時に境界を設けたる旨古老より伝承される。老僧様堂の聲譽上人は安産子育ての老僧様にて安産祈願者は腹帯を頂き出産までそれを被着し出産のあかつきには腹帯二帯を作って礼詣りする。並んでおられる秀譽上人は虫封じの老僧様として信仰され回無死駆除や疳の虫治療のための願をかけ快癒後は唐辛子一株を供えてお礼詣りするなど昔より多くの人々による信仰は厚く八月二十三日はご縁日にて参詣する者多くあり。(境内石碑)
新編武蔵風土記稿による真福寺の縁起
(埼玉郡備後村)
眞福寺
同末(浄土宗、平方村林西寺末)、西川山と號す、開山宗譽慶長十九年十一月十三日示寂、本尊阿彌陀(新編武蔵風土記稿より)
真福寺の周辺図