最勝院。春日部市粕壁にある真言宗智山派寺院

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最勝院。慈恩寺住僧奝尊が創建

最勝院の概要

真言宗智山派寺院の最勝院は、華林山慈恩寺と号します。最勝院は、慈恩寺の僧奝尊が、慈恩寺を退いて永正元年(1504)当地に創建したと伝えられます。慶安元年(1649)には寺領15石の御朱印状を幕府より受領、近郷に末寺を擁した本寺格の寺院でした。

最勝院
最勝院の概要
山号 華林山
院号 最勝院
寺号 慈恩寺
住所 春日部市粕壁3-9-20
宗派 真言宗智山派
本尊 千手観音
葬儀・墓地 -
備考 新西国三十三ヶ所33番



最勝院の縁起

最勝院は、慈恩寺の僧奝尊が、慈恩寺を退いて永正元年(1504)当地に創建したと伝えられます。慶安元年(1649)には寺領15石の御朱印状を幕府より受領、近郷に末寺を擁した本寺格の寺院でした。

境内掲示による最勝院の縁起

最勝院
最勝院は新義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。最勝院のあるこの付近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて最勝院のほか、妙楽院、成就院、玉蔵院普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を遺している。
最勝院の本堂西側の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。
春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどにより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任ぜられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。
明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十二年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興業、各種の武道大会等にも利用された。
また、明治二十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。(春日部市掲示より)

新編武蔵風土記稿による最勝院の縁起

(埼玉郡粕壁宿)
最勝院
新義眞言宗、山城国醍醐三寶院の末、慶安元年十五石の御朱印を賜ふ、相傳ふ往古は慈恩寺村慈恩寺觀音堂の別当なりしが、永正元年奝尊といへる僧の住職せし頃、故ありて彼を辞して当所ヘ引移れり、因って華林山慈恩寺最勝院と稱すと云、されど此傳へ慈恩寺にては、沙汰せざることなれば疑ふべし、此僧慈恩寺の住職たることはさもあるべし、思ふに彼が慈恩寺に在し、内別に一寺を当所へ建立し、山号・寺号共に本寺の稱號を襲ひ用ひ、其内寺號は本尊の通称たるをもてこれを憚り、其院號をもて常の称とせしもんあらん、さるにより始は天台宗なりしが、中古今の宗に改む、中興開山を俊弘と云、延寶七年示寂、墓所に石碑あり、此僧高徳の聞えありて、僧俗の信仰斜ならず、示寂の後も諸人群詣すと云、其後法流の開祖を俊慶と称す、正徳元年十一月廿日寂す、
本尊千手觀音弘法大師の作と云、
鐘楼元禄四年鑄造の鐘をかく、
寺寶繍御打敷二枚。慶安四年大猷院殿日光山へ御葬送の時、当寺御旅館となり、其節賜りしと云、御棺の上を覆ひし御品なれど、今は御打敷と唱へ置り、惣體鳥獣草花を織出し、長九尺程、幅は上の方にて三尺、下は廣ごりて九尺許あり、
護摩堂、不動を安ず、
稲荷社、(新編武蔵風土記稿より)


最勝院の周辺図