南古谷神社。第二次世界大戦戦没者の慰霊
南古谷神社の概要
南古谷神社は、川越市古市場にある南古谷神社です。南古谷神社は、第二次世界大戦で戦死した南古谷出身戦没者の霊を慰めるため、昭和25年南古谷村の中央にあたる古市場氷川神社境内に創建したといいます。
社号 | 南古谷神社 |
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祭神 | 南古谷出身戦没者の霊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 川越市古市場2古市場氷川神社内 |
備考 | - |
南古谷神社の由緒
南古谷神社は、第二次世界大戦で戦死した南古谷出身戦没者の霊を慰めるため、昭和25年南古谷村の中央にあたる古市場氷川神社境内に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による南古谷神社の由緒
(古市場村)
昭和年代創建のため記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による南古谷神社の由緒
南古谷神社<川越市古市場二(古市場字古我原)>
太平洋戦争激化に伴い「撃ちてしやまむ」と国民は勝利という目的完遂のために一丸となっていた。
男子は戦前まで必ず青年期の始めに徴兵検査があり、これが成人となる通過儀礼の一つであった。村では徴兵検査が終わると一人前として扱われて若衆に加入することになっていた。兵隊検査は満二〇歳で行われ、いったん徴集されれば兵士として家郷を離れ、国のために一命をなげうつ決意で村を出発した。徴兵検査に合格しないと、唐箕についている三番口と同じだ(「しいな」が出る口の意から役に立たない者)といわれた。召集令状が来ると出征兵士は、各々近くの鎮守で区長・在郷軍人分会長・国防婦人会長から激励の言葉を受け、村人は最寄りの駅まで見送って万歳を三唱した。しかし、出征兵土の中には無言の帰還をしたものが多く、遺族の悲しみは誠に深かった。昭和二〇年八月一五日ついに終戦を迎えたのである。
ここに昭和二五年一〇月当時の南古谷村村長、沢田貞輔ほか一二名の建設委員により、当地出身戦没者の霊を慰めるため神社の創建が実行に移された。これは村人の総意であり、国のために殉じた一三七柱が祀られた。社地は南古谷地区のほぼ中央にある氷川神社の境内が選ばれ、ここに大宮の氷川神社から譲り受けた社殿を建て、厳粛に鎮座祭を執り行ったのである。(「埼玉の神社」より)
南古谷神社の周辺図